【コラムvol.34】
パラドックス・パラダイス。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.34  執筆/伊藤英紀


私たちのまわりには、
逆説やジレンマがあふれている。

紋切り型の例でいえば、
インターネットは、
時間も場所も飛び越える
跳躍的な
コミュニケーションツール
として期待された。
ネットの大衆化は、
よりオープンで
大きなコミュニケーション空間を
誕生させるだろうと。

ところが実際は、オープンで
誰もが参加できるツールになることで、
逆に、クローズドな小部屋が
たくさん誕生した、
という逆説やジレンマがある。

レイシストは
醜悪な考え方の小部屋に、
同感しあう仲間と
意気投合することで閉じこもり、
聞くに堪えないノイズを
まき散らす。

知性の権威に耳を傾けることもなく、
同レベルの仲間だけを信じる。
何も飛び越えない偏狭な小部屋を、
ワールドワイドでオープンな
インターネットは生んだわけだ。

コミュニケーション力
というコトバの流布は、
逆に、コミュニケーション力を
減退させてしまった、という逆説や
ジレンマもあるように思う。

コミュニケーション力の
ないヤツはだめだ、と
社会的に即時リアクションを
強制されることで、
“黙って聞いてみる”とか、
“何も言わないでおく”とか、
“持ち帰ってじっくり考える”とか、
人と人にとって
大事なつきあいのあり方や、
多勢に同感せずに、
“そのノリや考えにはついていけない”
と水を差す貴重なつぶやきは、
コミュニケーションと見なされなくなり、
逆に“KY”と非難される、という
逆説やジレンマだ。

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