【コラムvol.49】
理想という名の破壊。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.49  執筆/伊藤英紀


夢や理想やビジョンやロマンを追うことに比べると、『現実対応』はかなり旗色が悪い。

『現実派』は『理想派』より、人からの好感度や支持率において、どうにも劣勢だ。

理想やビジョンは人に希望を与えて能動的なアクションを生むが、現実対応なんて単なるリアクションじゃないか。つまらない、と。

ところが、じゃあ、ウマくいっていない会社ってのは、その『つまらない現実対応』ってやつに明け暮れている会社が多いのか、というとそうではない。

じつは、逆だったりする。きっちり現実対応せずに理想を追っかけている会社のほうが、あれこれ壁にぶつかり混乱や問題を抱えていることが多いものだ。

もし人々が、『理想を掲げること』をカッコイイ、イケてるととらえ、『現実対応』なんてバカでもできる夢のない退屈な処世術だ、とちょっと見下しているのだとすれば。

そうなのであれば、「現実もずいぶんナメられたもんだ」と思う。「バカも休み休みに言って欲しいな」と、ちょっと強めに『現実対応』を擁護したくなる。

現実対応はとても知的かつ意志的な行動だと思いませんか、と。

現実対応というと、「志しがない」「それは単なる足踏み」「カニじゃあるまいし、横ばいじゃ前進しない」「停滞だ」と見られがちなのかもしれない。

しかし、現実対応とは決して停滞ではない。

なぜなら、現実は決して停止していないからだ。常に動いているからだ。さらに動いていくからだ。

つまり、現実とは、『点』ではなく、『幅』であり『奥ゆき』だからだ。

目の前の現実をその奥までしっかり見きわめて、そこに潜む、“過去・現在・明日のつながり”という『幅』を、見逃すことなく捕捉することができたならば。

過去と現在の因果関係も、割り出せるだろう。現在から明日への変化の兆し、明日への橋の架け方も、うっすら見えてくるだろう。

結果、『変化すべきテーマ』も『改良して向かうべき方向性』もきっと見つかるのではないかと思う。

しっかりとした『現実対応』には、『明日への対応や展望』という新しい一歩が必ず含まれているのだと思う。

これは、つまるところ何なのか。

現実に根差した『ビジョン』である。

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