人間交換日記 146通目「自由という名のフィクション」大野

人間交換日記

「すべての人は、すごい可能性を秘めている」と信じる大野と、「多くの人は目的などなくただ存在しているだけ」と断ずる安田。人間の本質とは何か。人は何のために生きているのか。300文字限定の交換日記による言論バトル。


146通目/大野からの返信
「自由という名のフィクション」

そうですよね。そうですよね。(誤植ではありません)そして、そのように自己の認知のあり方に対して、それをさらに認知することができるのは人間だけです。そして、人が生きていく意味は実は創造性を発揮できる領域ですよね。少なくとも生きる意味は自由自在。ってことは幼少の頃に向けられる問いや身近なモデルはかなり重要な訳です。本来生まれてから死ぬまでの間の意味を僕たちは創造しながら生きていける存在なのだから。これぞ人間にのみに許された創造活動。でもなぜ、僕たちは人がこしらえた意味を何も疑うことなく自分の生きる意味にしがちなのでしょう? 自由という名のフィクション。まるで見えない鎖で繋がれているかのようです。

前回145通目/安田「信仰とは欠落である」

大野さんへ

人間だけが後悔できる。人間だけが避妊できる。人間だけが忖度できる。人間だけがやせ我慢できる。う〜ん。考えれば考えるほど人間っておバカですよね。そしてトコトン自然の摂理に反しています。やはり人間とは宇宙の調和を逸脱した存在なのでしょう。良いか悪いかは置いといて、そういう存在であるということ。他の動物には宇宙の調和がベースとして組み込まれている。でも人間にはそれがない。だから信仰が必要なのだと思います。欠落したベースを埋めるために。では何を信じるのか。それは個人の自由です。きっと、それが人間のすごいところであり、とことん愚かなところでもあるのでしょう。

ー安田佳生より

 

前々回144通目/大野「誰もが信仰している」

安田さんへ

人間だけが○○できる。ここに安田さんなら何を入れますか。複数OKです。それらは何を物語っていて、何を物語っていないのでしょうか。例えば、人間の皮膚ひとつとって見ても、カジノやAmazonのセキュリティーレベルを遥かに凌ぐシステムですが、いったい誰がこれを創れる?僕は特定の宗教を信じてはいません。しかし、裏を返せば無宗教という宗教を信仰していると言える。結局、意識的だろうと、無意識的だろうと、誰もが信仰していると言える。それが明確なのか漠然なのかは別にして、信仰が人間をつくっている。そして、その信仰に値するかの証明は不可能。根拠があるかないか?ではない。何を信仰していけばよりよく生きるか?です。

ー大野より

 

これまでのやり取り

交換日記をする二人



火曜日
安田佳生(やすだ よしお)

1965年生まれ、大阪府出身。
2011年に40億円の負債を抱えて株式会社ワイキューブを民事再生。自己破産。1年間の放浪生活の後、境目研究家を名乗り社会復帰。

●金曜日
大野栄一(おおの えいいち)
株式会社一番大切なこと 代表取締役
https://ichibantaisetsunakoto.com/
https://www.sugoikaigi.jp/coach/eiichiono/

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