これからの採用が学べる小説『HR』:連載第8回(SCENE: 015)【第2話】

HR  第2話『ギンガムチェックの神様』執筆:ROU KODAMA

この小説について
広告業界のHR畑(求人事業)で勤務する若き営業マン村本。自分を「やり手」と信じて疑わない彼の葛藤と成長を描く連載小説です。突然言い渡される異動辞令、その行き先「HR特別室」で彼を迎えたのは、個性的過ぎるメンバーたちだった。彼はここで一体何に気付き、何を学ぶのか……。これまでの投稿はコチラをご覧ください。

 


 SCENE:015


 

 

 社長の動きが固まった。そしてゆっくりと保科を見る。いや、それは俺にしても同じだった。
「……保科さん?」
聞き間違いかもしれない。いや、そうであって欲しい。
「……何だ君は。何がバカだというんだ」
社長が呻くように言った。保科は肩をすくめ、だが特に躊躇する様子もなく、こう言い放った。
「こいつが今した話だよ。社長さん、あんな話に納得したんですか?」
「ちょっと……あんた一体何を……」
思わずそう言う俺を、保科ではなく社長が手を上げて制した。社長は目を剥き、歯を食いしばった顔は、怒りのためか赤くなっている。
「この人は……この人は採用単価を下げるって言ったんだぞ。掲載料金も割安になるって……それのどこがバカなんだ」
声がおかしい。何かをせき止めているような、喉の奥に落ちていくような声。小学生の頃、近所で迷い犬が捕獲されたことがあった。あのとき保健所の人間に羽交い締めにされた犬が、こんな声を出していた気がする。もうやめた方がいい、そう思って保科を止めようとしたが、間に合わなかった。保科はそんな社長を前に、まるで1たす1の答えを言うような気軽さで、言った。
「うーん、それがバカだとわからないところ、かな」
「何だと!」
社長が叫んで立ち上がる。
「何だその態度は! 何なんだお前は! ずっと自分は関係ないみたいな顔しやがって、やっと口を開いたと思ったらそれか! お前……俺が、俺がどんな思いで商売やってるかわかってるのか! バイトは入ってもすぐ辞めるし、店もまとも回らない。だから売上も上がらないし、それでも高い金を払って求人を出し続けているんだぞ! お前、採用ってものを真剣に考えているのか!」
そこまでを一気に吐き出した社長は、肩で息をし、そして鬼の形相にも泣き顔にも見える表情で保科を睨みつけた。俺は怖くなった。保科は一体何を考えている。客のこんな顔を商談の場で見たことなどこれまでに一度もない。いや、商談の場だけじゃない。俺はこんなにも感情をむき出しにした人間を見たことがあっただろうか。
嫌な空気だった。社長の痛みが漏れ出しているような、重苦しく、悲痛な空気。もともと小柄な社長だが、威勢よく怒っていた時に比べ一回り小さく見える。俺は保科を見た。奇妙なことだが、助けを求めるような気持ちだった。社長をこうさせたのはこいつなのに、なぜかどこかで、保科ならどうにかしてくれるような気もするのだ。
保科はしばらく静かに社長を見つめていた。その表情はフラットだ。嫌になるくらい、フラットだ。
「採用を真剣に考えているのか……か」
保科は独り言のように言い、そして、微かに俯いて小さな溜息を漏らすと、上目遣いに社長を見据えた。
「その言葉、そのまま返しますよ、社長」
「な……」
絶句する俺と社長を前に、保科は続ける。
「だってそうでしょ。採用の打ち合わせなのに、なんでデータだとか金だとか、そういう話ばっかりなんだよ。採用ってのは、人間の話だろ? だったらもっと、人間の話しようぜ」
……ドキリとした。
人間の話。
社長も同じだったのかもしれない。怒りのあまり見開かれていた目が、ゆっくりと机に降りていく。だが、怒りがおさまったわけではない。当然だ。
「お、お前に何がわかる……お前みたいなガキに……」
すると保科は何を思ったのか自分のリュックをガサガサと漁り始めた。そして中から赤い表紙の単行本を一冊取り出すと、それをどんとテーブルに置く。
見るからに古い本だ。タイトルは……『美食の本懐』。著者名はアーロン・ウッドワードとなっている。赤い表紙に、何も乗っていない皿を持つコックのイラストが書かれている。
「これは……」
社長は目を丸くして呟くと、その本に手を伸ばした。
「保科さん……何ですかこの本?」
「……四十年くらい前に発売された、ある美食家のエッセイ集だよ」
「美食家?」
「そう。でも、別にうまい店を紹介してる本じゃない。食べるとはどういうことか、いや、幸せとは何なのかって妙に漠然とした話を延々と語ってる。……そうですよね、社長」
「どうしてこれを……」
社長は信じられない、という顔で本を手に取り、保科に言った。
「10年くらい前、ある人が社長の作ったバーガーを食べて、その時の感想をブログに書いて残してたんだよ。その人はバーガーのうまさに感動して、それを作った当時の社長に声をかけた。どうしてこんなバーガーが作れるのか、どんな工夫をしているのか、モチベーションは何なのか。そんな質問に対して、社長は答えた。ウッドワードの『美食の本懐』が原点だということ。食べることを通じて人を幸せにしたい、幸せは食から生まれるってことを教えたい。その触媒としてうまいバーガーを作ることが、自分の使命なんだって」

感想・著者への質問はこちらから