泉一也の『日本人の取扱説明書』第18回「教育好きな国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第18回「教育好きな国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

3年B組金八先生、熱中時代、二十四の瞳、スクールウォーズ、教師びんびん物語、ごくせん・・先生もののドラマと映画はざっと調べただけでも100以上ある。これらの先生物語は「熱い何か」を教えてくれた。

こうして数多くが制作され、我々の心に残っているのは、「先生」という存在へのあこがれと尊敬が日本人に根強くあるからだ。しかし、今は先生たちへのあこがれと尊敬は、過去と比べて地に落ちた。それは「学ぶことは面白いこと」ということを生徒たちに教えてこなかったからだろう。先生として何よりも必要な「学びは面白い」を気づかせる技術(マインドではない)を、先生になる過程で学ばないし、そして試験でも問われない。もし技術として学ばせるなら、平成教育委員会やプレバトといった教育系の人気TV番組なんかを教材にして、どのように授業のコンテンツを作ればいいか、クラスの雰囲気づくりをどうすればいいかを学ぶような科目があるはずである。

それよりも、日本人は先生たちに強制され管理され、世の中のレールに乗せられたという感覚を持ってしまった。その先生たちも、文科省に教育委員会にカリキュラムに全国統一テストに縛られている。その縛りに親たちも縛られ子供たちを塾に通わせる。

こういう時は、原点に帰るのがいい。企業も歴史をへてくると皆が会社の暗黙のルールに縛られて、思考も感情も硬くなり内向きになる。そして若手たちがリーダーや管理職層にあこがれも尊敬もなくなり、リーダーや管理職は組織を守ろうとしているにも関わらず、逆に組織が崩壊を始める。そういった企業の活性化をするには、創業の精神に戻り、そのルーツから組み立て直すのがいい。会社が存在する本来の意義を皆が考えはじめて、そのテーマでの対話が起こり、手段が目的化した組織風土を変えていく。

つまり今の教育は手段が目的化していて、成績をあげること、カリキュラムを全員が一律にこなしていくという手段が目的となっている。

では教育の本来の目的は何だったのか。学習とは人間本来の欲求であり、その欲求を満たすのが教育である。そして教育者はその成長に感動する。つまりは、人本来の欲求を満たし、教えた側も感動するという、ただのエンターテイメントである。

お笑い芸人が、笑いたい欲求を持った観客を笑わせて、芸人自身も笑わせた!と感動する構造となんら変わらない。

教育基本法には教育の目的を「人格の完成」と謳っているが、そんな高尚なものではない。もっと原始的でシンプルなものである。ただ、教育者は周りから尊敬されあこがれの対象となったので、高尚なことをいわねばと、無理してカッコつけただけである。それを、後世の人は真に受けて、二宮金次郎像などを作り、教育とは高尚なものだと美化したのだ。

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