泉一也の『日本人の取扱説明書』第38回「學問の国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第38回「學問の国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 

現代の日本では、學問が立身出世の道具と化している。なぜ小学生が塾に行くのか。それは學問がしたいからではない。将来いい学校、いい会社にいき、いい生活をするためである。塾には、「なぜ学ぶのか?」という問いはなく、受験の課目でいかに早く正確に正解を導くのかという訓練があるのみ。塾の経営者も先生もそんなことは百も承知であるが、それでも子供達が目標に向かってがんばって達成するその経験に価値があるとか、受験科目でも人間的な学びはあるなどと「自己納得」し「思考停止」をさせている。塾だけではなく、学校の先生も同じ穴のムジナである。

明治時代に入って學問の目的が立身出世になった。それまでは、士農工商の身分制度があったので、勉強ができたからといって立身出世はほとんどなく、そのお陰で「学びたい」という純粋な動機が生まれやすかった。日本には寺子屋が数多くあったが、そこでは純粋な動機が生まれやすかったはずである。明治になって身分制度をなくして自由にしたのに、今度は立身出世というレールに縛られるようになるとは。本当の自由はそこにはなかったとそろそろ氣づいてもいい頃である。

では、どこに學問があるかというと、学びたいという純粋動機を自由に開放できる場だろう。その場は今の社会にはあるにはある。ちょいとググれば、QAサイトにウィキペディアに論文に24時間365日サクサクと出てくる。行くのが邪魔臭いが、図書館には豊富な書籍が山のようにあって無料で読めるし借りることもできる。

私は、24歳の頃合格した大学院の進学を辞めて1年間プー太郎をしていたが、暇だったので大学の図書館に入り浸った。そこで人生で初めての學問を経験した。与えられた課目がなく、単位を取るという目標もなく、いつまで論文をかかなければという納期もなく、そこにあったのは純粋な「学びたい」という動機だけだった。図書館の膨大な書籍が並ぶ棚の間で自分に問うてみた。「何が学びたいねん、オレは!」先生がいなかったお陰で、なんでも選択できたし、解釈の仕方も自由だった。自由な學問がそこにあったのだ。苦労して受験勉強をして得た大学でのカリキュラムよりも、プー太郎となって通った図書館での学びが今に直結している。

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