「ハッテンボールを、投げる。」vol.4 執筆/伊藤英紀
人間いろいろです。
たとえばAさんは、幸せな人生イメージがあって、そこに近づくためにそれなりに努力し、ふさわしい仕事を手に入れました。
かたやBさんは、やりたい仕事があって、それができたら人生幸せだなあといろいろ計算もして、その仕事に就けるようそれなりにがんばりました。
Aさんは、(幸せな人生イメージがあった ⇒ 近づける仕事を選んだ)
Bさんは、(やりたい仕事があった ⇒ 幸せを手に入れるぞと努力した)
どちらも、上を向いて働く動機。幸せへの欲求がある。
つまり、Aさんは幸福観が先、Bさんは仕事観が先です。しかし、それぞれに人生をつくる起点と動機は強く、どちらも幸せな人生を求める欲求に変わりはありません。幸せへ近づくために、それなりの戦略思考でもって、いまの仕事を手に入れたのです。
人間いろいろです。
ここにAさんともBさんとも異なる、Cさんが登場します。Cさんに、「幸せな人生イメージは?」と問うと、「特に。そこそこ食えたらいいかな。」続けて「やりたい仕事は?」と問うと、「別に。残業が少ない仕事ならいいかな。」
Cさんは、AさんBさんに比べて、人生をつくる起点が弱いです。上を向いて生きる動機、幸せへの欲求が薄いです。Cさんはなにも特別な人ではありません。世の中、AさんBさんより、Cさんタイプの方がずっとずっと多い。これが現実です。
Cさんは、(幸せイメージもやりたい仕事もない⇒人生の起点が弱い)
つまり、上を向いてなにかをめざす動機や欲求が少ない。
経営者が投資する人材採用マーケットの実態は、こんなCさんタイプであふれています。AさんBさんは希少です。にもかかわらず、「プロ意識が高い人材が欲しい。」「貪欲な自己実現欲がある人材がいい」と、欲ばりがち。生産労働人口2010年8000万人超⇒2030年約6700万人を背景に、人材不足が加速する採用マーケットが、ますます小さくなってしまう期待過剰に陥っています。
獲得競争率が高いAさんBさん狙いと並行して、Cさんの育成に注力しない会社は、いずれ慢性的な人材不足に泣かされるのは目に見えています。
では、Cさんをどう教育したらいいのでしょう?どれだけお金をかけてスキル教育をしてもムダです。どれだけ人の信頼にたる行動規範や規律の教育をしてもザルです。なにせ、前々回前回でお話した“いい仕事に不可欠な内発性”、この発生根拠になる自分なりの「幸福観」も「仕事観」も、薄くて貧弱なのですから。
Cさんは、これまでの人生において胸がふくらむような幸せ経験が疑似経験も含めて少ないから、これからの幸せをイメージできないのでしょう。Cさんは、“まわりからさらに愛される自分”を仕事をつうじて開発した誰か、に憧れたことがないから、仕事への熱が沸いてこないのでしょう。
そんな現実に対して、「いい若い者が、幸せ観も貧弱で働く動機も希薄なんて、情けない!けしからん!」と若者を責めるのはお門違いというものです。幸せ観も働く動機も、ほったらかしの人間の中には育ちません。
これまで人間が濃密に生きる動機を育てることができたのは、濃いめの地域社会や家族・親類縁者や友人どうしや男女のつながりなど、濃いめの人間関係がそれなりにあったからです。それらがどんどん希薄になる現代にあって、Cさんののっぺりした心情はきわめて自然なのではないかと思います。
文科省は、大学と民間企業の産学連携により、ビジネスシーンで即活躍できる創造的で実践的な人材育成に国費を使っています。日本の経済力の斜陽は明らかで、産業と経済の国際競争力の立て直しは急務だ!ということでしょう。でも、この方策が当たっているとは私にはとても思えません。なぜなら、日本を下支えする多数は、AさんでもBさんでもなく、Cさんたちだからです。
即戦力化できるビジネスリテラシーの高い創造的実践型人材を、どれだけ産学連携で育成しようとしたところで、Cさんには届かない。響かない。むしろCさんの現実と心情を無視した一方的な教育は逆効果でさえある。
なにせ、“内発性の発生源になる幸せ観”が足りないのですから。それ、文科省主導の産学連携では絶対に教えないし、身につけることはできません。
つまり企業がよい人材を集めて成長したい、と本気で願うなら(それしかないわけですが)、ビジネス知識や仕事技術を教える前に、人生とか幸せとか働く楽しさ、という“生”のベーシックから教育していかなければ、これからの時代の人材育成は効果を期待できないということです。
企業の人材教育はいま、単なるビジネス研修、通りいっぺんの組織人教育を脱して、“人生を学び深められる新しい交流や教育のあり方”、を模索しなければならない転換期を迎えているのだと思います。とても難しいことですが、そこを次回は考えてみたいと思います。
(次回につづく)