「ハッテンボールを、投げる。」vol.20 執筆/伊藤英紀
三島由紀夫は、あるインタビューで次のように語った。
「今日を生きるということと、
100年のために生きるということと、
その間に生きているんですからね、我々は。
仕事もみんな、その間にしかない。」
「自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬ、
というほど人間は強くないです。」
「人間はなにか理想なり、
なにかのためということを考えているので、
自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。」
以上が、抜粋です。
“あす死んでもいいように、今日を生きる”
美しい覚悟のようだが、人間はそう美しくは割り切れないものだ。
どうしたって、今日一日を、
その先に続くであろう未来を思って生きてしまう生き物だから。
“今日一日が満ち足りれば、それでいい”。
ハッピーな人生観のようだが、人間はよほどの能天気でなければ、
そのように楽天的には割り切れないものだ。
どうしたって、今日一日を、
あすにつながる一日にしたがる生き物だから。
仕事もそうだ。
今日やるべきタスクを果たしたからといって、
意欲のある人間は十分には満足できない。
そんな日々には、すぐに飽きてしまうだろう。
やるべきタスクだけではなく、それを超える何か、
あすにつながる新しい何かを発見できない一日が続けば、
その停滞感に苛立ち、不安をおぼえ、不機嫌になってしまうだろう。
そして、経営者がのぞむ人材とは、そのような人物ではないか。
“今ここを生きる”、
その感覚が大事だという意見を聞いたことがある。
しかし、会社がいちばん欲しいのは、
そこを大事にする人物より、
“あすを考えながら、今日を生きる”という人物なのではないか。
今を生きる、ということと、あすを見すえる、ということ。
そのはざまの揺らぎがなければ、人は迷わない。
迷いがなければ、人は考えない。
迷い、考える人は、前向き一辺倒のポジティブバカではない。
あすをまともに考えるためには、
後ろを向いて昨日に立脚しなければならないからだ。
過去からの学びや過去への洞察を欠いて、今や未来を考える。
そのような時間の幅に依り立たない考えは、
ほとんど幼児の夢想と変わらない。幼児には、時間の幅がない。
歴史や過去から学びつづけ、そこを根拠に
いま起こっていることを判断し、あすを考えながら、今日を生きる。
これで本当にいいのかと疑い、こっちの方がいいかもなと傾きを修正し、
考えをめぐらせつづけ、迷いつづける。
安易に答えは出さない。正解はこれだ、と安直に飛びつかない。
割り切りのいい正解もどきに逃げこめば、
考えはそこで停まってしまう。
自分が信じたい一つのことに目が眩み、いろんな可能性が見えずに、
ためらいも迷いもなくして、これが答えだ!と叫べば、
人の脳は思考を失ってしまう。
日本の経済はまだまだ伸びる。それを疑う手合いが経済を悪くする。
ポジティブ志向が正解だ。迷いはいけない、
ネガティブは人間をダメにする、と怒る人がいる。
日本のGDPは下り坂、はネガティブなのではなく、現実判断の一つだ。
人口が減り、中高年が増える。技術競争においても強敵だらけ。
立憲国家の体も揺らいでいる。弱りめは明らかに見える。
その現実判断を踏まえて、どうやればダメージを最小化できるか、
社会の活力は保たれるか、どう生きれば幸福感を得られるか。
そこを、ポジティブに考えよう、はネガティブなのだろうか。
GDPが下がるからといって、中小企業がのきなみ衰退するわけではない。
人間の生気がなくなるわけではない。
GDPがネガティブでも、人間はポジティブでいられるはずだ。
経済あっての人間だ。経済の立て直しを放棄してはならない。
でも、現実的な見通しに目をつぶり、盲目的に未来を信じてもならない。
この2つのはざまで、私たちは生きる。
今と明日のはざま。
現実と理想のはざま。
ネガティブとポジティブのはざま。
あっちか、こっちかのはざま。
膨大にある過去から学ぶことに喜びを感じながら、
その学びに根ざすからこそ、はざまで、迷いつづけ、考えつづける。
それが、生きることだろうと、僕は思います。