「ハッテンボールを、投げる。」vol.56 執筆/伊藤英紀
俺のシックスセンスはナンセンス。
ささいだけれども、ふしぎなことがあった。
先週末のこと。朝、ベッドで半身を起こすと、なにやら鼻のあたりにかすかに違和感がある。眉間の下の鼻骨を人さし指でそっとなでてみた。すこし痛みがある。かるく打撲したあとのような痛みだ。
しかし、前日も就寝中も打撲した覚えなどまったくない。ベッドも枕も当然ふかふかで鼻を打ちつけてしまうようなモノは周囲になにもないのだ。
へんだなあ・・・腑に落ちない思いをいだきつつ、身支度をしコーヒーを飲んだ。が、鼻の違和感は消えない。その日はオフィスに行かず、自宅で仕事に取りかかった。
午後2時過ぎ、休憩がてら本でも読もうと、ベッドに入った。窓からの柔らかい陽射しを浴びながらベッドで読書し、眠くなったら30分ほどウトウトとまどろむ時間が、俺は大好きだ。
ベッドに入ると、鼻のことを思い出した。鼻骨をそっとなでてみる。痛みは消えている。あれはなんだったのだろう・・すこしひっかかったが、本を読み始めた。
しばらくすると、逆光で文字が読みにくくなったので、手元に灯がほしくなった。ベッドサイドテーブルに置いた読書灯を点けようと、カラダをひねって右手を伸ばした。
そのとき、なぜか読書灯が倒れた。読書灯の傘が、激しく鼻骨にぶつかった。呻いた。むこうズネを痛打したときのような、いたたまれない痛みがなかなか引かない。
痛みをやりすごすため、半身を起こし、顔面を手で覆った。鼻骨に指を添えてみる。かなり痛い。
痛みをガマンしながら、今朝のことを考えた。正体のわからないあのかすかな鼻の痛み。そして、いまの激痛。・・・あれは・・・虫の知らせ、ってやつだったのか・・・
痛みが軽くなってから、洗面台へむかい、鏡をのぞいた。赤く腫れている。時間が経てばもっとひどく腫れあがるだろう。ヒビが入っているかもしれない。そう思いながら、湿布で鼻全体を覆った。
鏡の中の自分が鼻に白い布団をかぶって、マヌケヅラで笑っている。虫の知らせ。こんなくだらないささいなことで、俺の虫めは、第六感を発揮しやがった。貴重な能力をドブに捨てやがった。
俺のシックスセンスは、ナンセンスだ。意味がない。「虫くん。もっと人生を左右するようなさあ、大事な局面で役目を果たせよなあ。」ニヤついた鼻布団野郎に、そう言い捨ててやった。
その夜、僕の住まいからほど近い実家にクルマで出向き、79歳の母に食事を差し入れた。湿布を剥がし、少し赤く腫れた鼻で母とテーブル越しに向きあった。
「鼻をぶつけてしまってさ」と僕は言った。母はじっと僕の鼻を見つめた。「あんたの鼻は、お父さんにそっくり。鼻が腫れてますます似たね。」
たしかに僕の鼻は2001年に亡くなった父ゆずりだ。鼻筋にすこし鷲鼻状のカーブがある。しかし、父の鼻骨は僕より少し太い。腫れて父の鼻に近づいたわけだ。
母は続けた。「あんたの鼻を見て思い出したけど、そういえば昨日、お父さんが夢に出たんよ。夏でね。頭にタオルを巻いて、汗だくで庭の手入れをしてた。鼻が真っ赤やった!」
なんの虫の知らせやねん。俺、母、そして死んだ父が、鼻の予兆でつながった。俺の人生の命運に触れるような、なにか隠された重大なメッセージや兆候が、この出来事に潜んでいるのだろうか。考えてみたが、なにしろ鼻布団をかぶっただけである、何もない。カラッポだ。
我が家の虫くんは、家系的に意味がない。俺んちのシックスセンスはつま先から鼻の先までナンセンスだなあ、というナンセンスでささいな、ふしぎ話でした。実話です。