「ハッテンボールを、投げる。」vol.59 執筆/伊藤英紀
人間は、自分のことで手一杯なのだと思う。特に都会で働く人は。
仕事して金を稼いで、家族を養わなければならない者は、高い家賃に圧迫され家計のやりくりに追われる。ひとり身の者は自分の将来不安とモヤモヤたたかう。
どんよりした金の心配、仕事の悩み、会社のストレス。煩わしい人間(男女)関係。あーっ、めんどくさい。余裕なんかホントないよね。もう手一杯だ。
でも、手一杯で余裕なんかほぼないんだけど、『手一杯で余裕がない人々だらけの世の中』なのだから、その一員として定位置に居直ってしまえばどうなるか。
自分は流浪の大衆、根ざす地域社会も持たない、いわゆる『その他大勢』ってことになっちまう。
で、その大勢は、「その他大勢になっちまうのはやっぱりヤダなあ」と思うわけです。僕も思います。
「人波に埋没しちゃって、誰の目にも留まらない石ころのような存在になっちまうなんて虚しすぎる。」
「一匹が右に流れれば右、左なら左に流れる。そんな鰯みたいな人間になるのはサミしいなあ」と。
でも、『一糸乱れず集団行動をする鰯』は、世界が認知している日本人の国民性のイメージに近い。
当の日本人も、『規律ある日本人』『団結する日本人』『和を美徳とする日本人』を自慢に思う人が多いようだから、世界の日本人観と日本人の自画像はそんなにズレていないってことになるんですけどね。
で、鰯人間たちの話ですけど、自分は鰯じゃねえぞってことを表現するために、他者を攻撃したりする人間の群れが『変種』として現れたりします。
この変種は、鰯であることにガマンならないのではなく、弱い鰯であることにガマンならないようです。
強くなりたい!だから、強い体制側に適合し体制と一体になることで、『強くて主張する鰯』へと変身します。
そして、鰯でいることを良しとせず体制に批判的な言動をする勇気と理がある個人に対し、攻撃的に悪罵を投げつけたり、冷笑を浴びせたりする。
この変種の鰯は、劣等意識からか、凛として反鰯的行動をする個人を憎みます。攻撃することで、劣等意識を心の底に押しやり、自分が一段上の強い人間になった錯覚を味わいたがります。
鰯の群れや路傍の石ころから脱出できると思っているんでしょうが、実際は卑しい鰯、愚劣でグロテスクな石ころへとさらに身を落とすだけなんですけど。
『総理』を執筆した元TBSのジャーナリストにレイプされたと勇気を振り絞って告発会見し、民事訴訟を起こした伊藤詩織さんへのネット攻撃、辺野古埋め立て反対署名をしたローラさんへの罵詈雑言は、いやはや醜悪でした。
空気を読むことが支配的な世の中なわけだから、空気を読んでばっかりのヤツこそが被支配に甘んじている鰯人間ってことになるわけですが。
ところが恐ろしいことに、その鰯人間たちは逆に、「空気読めないヤツって多いよねえ。バカばっかりじゃん!成敗してくれる」とニヤニヤ叫びながら、“空気という名の鰯の生息域から脱出しようとする少数派”を攻撃することで、脱鰯化を果たした気になれる、という奇怪な行動心理特性を手に入れたようです。
日本の近代教育や近代産業化の成れの果てが、これです。鰯が極まって、底気味悪い異様な『変種』を生んでしまいました。
自分のことで手一杯な日常に人は忙殺される。そんな中で人ができることなんてホントに限られていると思うけど、その限られた中で少しでも『人間の鰯化』を食い止めることができたらいいな。鰯があまりにも多くなりすぎると、変種も生まれてしまうから。