「ハッテンボールを、投げる。」vol.60 執筆/伊藤英紀
自分はいかにアホで醜いのか。
そこを細かく分析して、偽悪でも偽善でもなく
生き生きと説明できる人であれば。
いや、わざわざ説明する必要なんて
ないんですけど、
その前提にのっとってものを分析したり、
意見を述べられる人であれば。
誰でも面白い文章を
書けるんじゃないかと思います。
文才はなくてもきっと人をつかむと思います。
僕の文章がたいして面白くないのは、
そこが足りないから。
どっかでカッコつけたがるから。
みっともないなあ、オイ。
しかし、とりたてて私が自分のアホに
無自覚なアホとして突出していて、
自分の愚かさをスルーするヤツ、
という見立てには、異議を申し述べたい。
(一人ノリツッコミ)
ほんの一握りを除いて、
ほとんどの人は多かれ少なかれアホです。
(僕だけじゃないんだぜ!)
そして、そこを認めることができる人は
とても少ない。
ましてや、そこを見つめて、
そこから人間や人間社会を洞察し、
人々の気づきを促し、あるべき進路の提言へと
展開できる人は、もっと少ない。
そして、その展開が、
人類の財産である近代的教養ってやつに
裏付けられている人となると、
もうほとんどいない。
だから、後世に残るほど学びや鎮魂が
豊かな文章を書ける人は、
ほんの一握りなんだと思います。
でもそんな図抜けた才能は置いておいて。
僕のような凡俗の徒であっても、
(イヤな言葉だ。
卑下っぽいのってイヤらしいぞコラ)
自分のアホをビビらず掘り起こして、
人間のアホへと考察領域を
広げられるならば、
もう少しマシな意見やら見方やらを
開陳できるはず、と信じたい。
と言いながら、
自分のアホさを忘れることって、
すごく大事だと思ってはいるんです。
そうでなきゃ気持ちが晴れないし、
笑って生きていけませんよね。僕はそう。
そういうもんだと思いますが、
自分のアホを忘れる時間を楽しむためにも、
ときどきは自分のアホに向き合うことも
大切じゃないですかね。
そんなバランスも、
クオリティー・オブ・ライフだと思う。
そういう生活品質が、
昨今崩れているような気がするんで、
こんなテーマで書いています。