「ハッテンボールを、投げる。」vol.65 執筆/伊藤英紀
1902年生まれの文芸評論家、小林秀雄は講演の中でだいたいこんなことを言っています。(正確に知りたい人は、CDやDVDが販売されています。一部はYouTubeでも聞けます)
「歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうんだ。」
「歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。」
「君を産んでくれたのは誰か?君のおっかさんだろう。おっかさんのいいところも悪いところも、すべては君のこの身体の内を流れているんだぞ。そうだろ。
そうすると、おっかさんを大事にすることは君自身を大事にすることだ。君が君自身を大事にすることはおっかさんを大事にすることになる。
歴史だって同じじゃないか。歴史を知ることは、自己を知ることになんだ。」
父や母への思慕と同時に、父や母のようにはなりたくない、という気持ちを持っている人もけっこう多いんじゃないですかね。
僕はそうだった。親の生きてきた道筋や気持ちに関心を寄せようとしない。それどころかむしろ、「俺は違うぜ」と自分の中にある父母の精神にフタをしていた。
親不孝とか親孝行とか、つまらない道徳訓みたいな話ではなく、最も身近な歴史から目をそらし軽んじることで、自分から目をそらし、人生を軽んじていたという話です。
親の人生そのままを知ろうとしないことで自分自身を知ろうとせず自分自身の人生をごまかしていた、ということが50を過ぎてよくわかります。遅すぎますが、気づけてよかった、若死にしなくてよかったとホッとしているので、まあ幸せです。ラッキー!
中世史でも近代史でも、歴史を知ることの面白さはそこなんだなと、小林秀雄が教えてくれました。歴史の客観的な事実なんてものではなく、歴史から見える残虐さや愚かさという人間の業や、生きることの冷酷な重さを、想像力でもって主観的に追体験する。すると現在の自分の中の残虐さや愚かさをも知ることができる。歴史は自分の外側ではなく、自分の内側にあると。歴史は自分だと。
また小林秀雄は、こんなことも言っています。「自分で考えるということは自分の個性と戦うことだ。」
「私の鼻がとんがってるなんて、これは何ですか。しょうがないじゃないですかこんなもの。だから人間ていうのはそういった意味の個性は、その人のオリジナリティではないんです。それはむしろスペシャリティです。特殊性です。
こんなものは誰にだってあるんです。誰にだって個性なんてあるんです。どんなバカにだって個性くらいあるんです。みんな人の顔に個性的なものがあるように。
それは強制されたもんです。だからそれは克服しなきゃならんのです。だから芸術家の個性ってもんは、必ず努力の結果、強制された個性を克服したもんなんです。こういう風なものを乗り越える精神が本物の個性です。」
人が個性だと思い込んでいる自分の特殊性は、単に強制的に与えられたものに過ぎないと。そんなものは個性じゃなく、戦って乗り越えるべきものだと。特殊性を乗り越えた先で人はようやく、本物のオリジナルの個性を、自分の力で手に入れることができるんだと。
自分が個性だと思っているものと戦うことが、考えること。考えることを放棄したくない人の戦いは、内面の中で死ぬまで続くようです。が、それはさすがにシンドイので、週休2日は欲しいし、長期バカンスも欲しいなと思っています。
また小林秀雄の有名な言葉で、「世捨て人は世を捨てた人ではない、世に捨てられた人だ」というのもあります。
言い換えれば、「めんどくさいから知りたくないし考えないという人は、考えることを捨てた人ではない、考えるという生の主人から見捨てられた人だ。」僕はそう捉えています。
そして僕はしょっちゅう酒を飲んでダラダラと無為に過ごし、考えるという生の主人から見捨てられてばかりいるのでした。