「ハッテンボールを、投げる。」vol.69 執筆/伊藤英紀
「その服、似あうよ。すごくいい」とまわりからいくらホメられても、本人にとってしっくりこない服は、着ていて落ち着かないし、ときにツラかったり恥ずかしかったりします。
これまで着なかった服を着ることによって、内面や行動に変化が生まれる、ということもかなりありますが、原則は本人が気に入らなきゃそうはならないものです。
中小企業のブランディング、というものは、そこがムズカしい。
ブランディングロジックというやつが非常に合理的であったとしても、デザインもそこそこステキだったとしても、その会社の社長や社員が「…う〜ん」と心の奥のほうでぬぐいきれない違和感をおぼえていたら、無価値です。
まわりが「いいですよ。これで行こう!」と押しつけても、そんなブランドイメージをまとって仕事をしたくない、しっくりこなくて日々モヤモヤするということは、無価値どころかブラハラだったりして。
ブランドは、主観と客観と俯瞰で点検することが大事だと思います。
主観だけでウチはここが良いんですよと胸を張っても、客観的にそこがあまり良く見えなければそのストロングポイントは力が弱いし、俯瞰したときにマーケットの中で他にはない光を放っていなければ、人には届かないし人を動かせない。
かといって、ご本人たちの主観を「主観的すぎる」とないがしろにして、客観と俯瞰に重きを置いて成立させてしまえば、まさにお仕着せというやつでちっとも納得感を得られない。納得できなければうまくいくわけがない。
着心地と居心地が悪く落ち着かないブランドとは、ご本人たちの主観をちょっと粗末に扱ってしまったもの、と言えるかもしれません。
日本人は客観力がないと社会学などでよく指摘されています。
キリスト教文化圏では、“私から見た私”と“神から見た私”という2つの視座で自分を見つめ自分の生活をつくるので、客観的俯瞰的視点が生来身についている。
でも日本人の八百万の神は友だちの延長のような存在なので、クールな客観的視座で自分を見つめ、俯瞰して自分という存在を位置づける習慣も文化もない。
(生活に困っているときに軒先に米を届けてくれたりする、頼りになる友人のような神さんと生きている。その証拠に神社で合格しますようにとか、成功しますようにとか神頼みする。キリスト教文化圏にはない感覚らしい。)
だから、日本人は客観性俯瞰性がどうしても乏しい、という論旨だったと記憶しています。
そのとおりだなあと思いますが、じゃあこの論旨で、「的を射たブランド提案なのに難色を示す社長は客観性が乏しいのだ。主観にとらわれすぎだ」と言えるかというとそれは一面的すぎると思います。
なぜなら提案する側だって、『主観をもっと大事にしたがっている社長が目の前にいる』という客観的事実をしっかりと見つめることができていないし、もういちど考え直して新しい答えを探そうともしていない。
つまり、『主観にこだわる社長がわからず屋なんだ』と自らの主観で思い込む『やたら主観が強い人』だからです。
ブランディングの基礎技術の一つは、広告の技術です。コピーライターとかデザイナーというクリエイターです。が、広告の技術一辺倒では中小企業のブランディングは難しいような気がします。
広告技術の多くは瞬間的にキャッチアップする技術ですし、広告対象の多くはライフサイクルの短い商品。企業のブランディングとなると、やはりカバーしなければならない想念の広さが違うと思います。
広告クリエイター独特の価値観、品質観、コミュニケーション観という狭い主観と、社長の想いや長年の会社実感や歩みというぼわーんと広い主観とは、相性が良いとは言えない気がします。
広告技術プラスこの人は何を持っているのか。広い見識なのか、柔らかい人間観なのか、シャープな洞察力なのか、深い受容力か昇華力か。
ブランディングを依頼するプロを見きわめる際には、そのあたりがとても大事だと思います。恐ろしいことに、そう思います。コワイなあ。