「ハッテンボールを、投げる。」vol.73 執筆/伊藤英紀
人は拘束衣を着ている。
「おかあさん、ちいさいころ、オレなにが好きだったかおぼえてる?」
「え、なに?」
「オレのこども時代の話。」
「う~ん…絵本とかマンガとか、みはじめると返事もしない子だったね。」
「おんなじかなあ、いまのオレも。なんか読んだり映画みたり。そんな一人の休日もわりと好きだから。」
「そお。変わらないんだあ。そういえばよくおとうさんにしかられてたよね。」
「…うん……でもそれ、おかあさんじゃないの?」
「なにが?」
「嫌いだったでしょ。中学くらいかな。オレがだまってじっと本読んでるの?」
「…そんなことないよお。」
「あるよ。そういうときはオレにわざと冷たくするんだよね、おかあさんは。オレなんか眼中にないって感じをよそおってさ。メシのとき、成績のいい兄貴や妹と勉強の話をさりげなくしてみせて、オレに当てこするんだよなあ。」
「ひえー、ずいぶん被害妄想だね。34にもなってえ。」
「中高んときオレけっこうな読書家でギターも好きだった。おかあさんはわかっていたはずだけど、そこにただの一度も触れなかったよね。どうしてかな?気に食わなかったんでしょ?」
「食ってかかるねえ。だから何?」
「オレ、いろいろ自信ないヤツだったけど、本やギターにのめりこんじゃうとこが、オレだなって。人とは違うオレだなって自分を感じることができてたんだよ。どうってことないことに聞こえるかもしれないけど、自分ではここがオレなのかもって、オレなんだって、認められる大事なとこだったんだよ。」
「あなたのいいとこだよね。そう思うよ。」
「嘘つかなくていいよ。あんたはクチでは言わないんだよいっつも。いい母親ぶりながら、ちょっとした態度とか家の空気とかで、オレを責めるんだよね。柔らかあく、だけどじりじり陰湿に。本やギターなんか将来を考えて勉強することに比べればいかにクダらないことか、無価値なことかをオレに刷り込もうとしてたじゃん。」
「もうやめなさいよ。言い過ぎ!」
「……オレ、女を殴るんだよね……」
「…なにぃ、どうしたのお?」
「恋人をすごく縛りつけるんだよ。女を思ったようにコントロールできないと、腹の底から女が憎くてたまらなくなる。オレ、そういう男なんだよ。」
「…久しぶりに帰ってきたんだから、もうよそうよ、そんな話。」
「そんな話をするために、オレ、帰ってきたんだよ。おかあさんと話そうって、34にもなって。…これがオレなんだなってオレが感じるオレに、おかあさんは触れもしなかった。おかあさんは、そんなオレに消えて欲しかった。のぞむ息子に入れかわって欲しかったんでしょ。そんなちいさなことを今さらぐちぐちって思うよね?オレも思う。だからオレはそんなオレをぶちのめすために帰ってきたんだよ。」
「あああ、大げさ。もうやめよ。」
「聞いてください。お願いします。おかあさんにコントロールされて自分をじわじわと押し殺していたことのちっちゃな憎しみが、何年もオレの中で降り積もった。女をどこかで憎むようになった。だからオレ、女をコントロールしたいんだ。やり返したいんだよきっと。だから女を拘束しきれないと憎しみがドロドロとわき出して止められなくなる。だから殴ったんだよ。」
「…私、どうしたらいいの?」
「…あの頃の本当の気持ちを話して欲しい。それだけでいい。オレは、オレを縛っているオレ自身から、オレの手でオレを自由にしたいんだよ…人を大事にできる男になりたい。」
人は拘束衣を着ている。34歳は脱ぎ捨てようとしている。なぜ自分が女を縛りつけ殴るのか、その理由を自分の手で明らかにすることで。DVへの物語を共に作った母親と向きあうことで。
人は過去を引きずって生きている。自分が何を引きずっているのか、引きずられているのか、そこに向きあわなければ、自分にも未来にも決して向きあえない。そんな過去もある。
目に見えない拘束衣を、見ようとする人。脱ぎ捨てようとする人。そんな人と語りあいたいと思う夜が、僕にはあります。