HR 第1話『イタリアマフィアの爆弾』執筆:ROU KODAMA
SCENE:007
鬼頭部長のメール自体はシンプルな内容で、来月頭、つまり約二週間後の月曜日から研修に行ってこいというものだった。意外だったのはその行き先だ。
「HR特別室?」
初めて聞く名前だった。しかし、所属はここ営業一部と同じHR事業部。つまり俺の研修先は、外部の企業でも研修機関でもなく、この会社のイチ部門だということらしい。室長として宇田川裕二、という名前がある。アクセスは2駅隣りの新橋駅から徒歩3分。
「新橋? なんだこの部署……」
俺は首をひねった。昨年度末、つまり数週間前である3月末に開かれた全社会議でも、「HR特別室」なる部門についての発表はなかったはずだ。もっとも、引き続き組織の花形、営業一部での勤務が決まっていた俺は、営業関連の発表にしか興味がなく、組織図すらまともに見ていなかった。もしかしたらこの4月に立ち上がった新しい部署なのかもしれない。そういえば、誰かが社内ベンチャーとか社内起業とかいう話をしていた気もする。組織変更に関しては比較的慎重派なはずのAAだが、何か変化が起こり始めているのかもしれない。
そのとき、「ただいま戻りましたー」とガキ臭い声がオフィスに響いた。
その声の主・島田は、小太りの体に似合わぬ機敏な動きでこちらにやってくると、俺の隣の席にドカッと座った。額には汗。鼻歌を歌いながらパソコンを開き、ガチャガチャと大きな音をたてながらキーを打ち始める。
こいつに「営業一部」の人間だという自覚があるのだろうか。無言の非難を込めて大きな溜息をついてみせたが、鈍感王の島田は当然気づかない。キーを叩く音に、んふー、んふーという荒い鼻息が交じる。
ああ、鬱陶しい。心から鬱陶しい。
まったく、どうしてこんな奴の隣で働かなければならないのか。ふと微かな振動音を感じて視線をやると、床に直置きした島田のビジネスバッグの中で、携帯電話のランプが点滅しているのが見えた。だがやはり島田は気づかない。
「おい」
うんざりしながら言った。こいつはどうしてこうもどんくさいのか。
「おいって」
「ん? 何?」
「携帯鳴ってんぞ」
そう言ってカバンを指差すと、島田はやっと気づいた。
「あ、ほんとだ」
何がおかしいのか島田は饅頭のような丸い顔をくしゃくしゃにして笑い、カバンの中にドラえもんのような手を突っ込んで電話を取った。
「はい、島田です! あ、社長! お世話になってます」
オフィス全体に響き渡るような声。くそ……八百屋じゃねえんだぞ。心の中のツッコミが聞こえるはずもなく、島田は大声で話を続ける。
もういい。こんな奴を気にしている暇などない。リーダーが帰ってくるまでに、M社の件の報告書をまとめておく必要がある。俺はうんざりしながらも、覚悟を決めてWordを立ち上げ、新規ファイルを開いた。
その瞬間ーー
「Cプランだと、税込みで328万6200円になります。はい、ありがとうございます。それでは今からお申込書をFAXさせていただきますので――」
俺は思わず手を止め、島田の方を向いた。
「いえいえ、そんな、とんでもないです。それに、本当にいい人を採用するまで安心はできませんから。一緒に頑張りましょうね、社長!」
島田はそう言って電話を切った。
そして、何事もなかったようにまたガチャガチャとキーを叩き始める。
「……おい」
「ん? なに」
島田はニコニコしながら俺の方を向く。
「いまの電話、なんだ」
「ああ、うん。こないだプレしてきたD工業ってとこなんだけど」
「D工業って、あの、千葉のか」
名前は聞いたことがあった。千葉県の浦安だか市川だかにある会社だ。確かに数週間前、島田がよくその社名を口にしていた気がする。何を作ってどこに売っているのかまでは知らないが、確か従業員は50人程度。規模的には営業一部の仕事ではないが、島田自身が新規で取ってきたということもあり、そのまま担当することになったとか言っていた。
「328万って……お前、受注したのか」
「そうなんだよ、取材に行ったらすっごくいい会社でさあ」
的はずれな回答をして笑う島田に対し、急激に怒りが膨らんでいくのがわかる。
「あんな規模の町工場が、なんでそんな金出すんだよ。お前、一体何売ったんだ」
思わず強めの口調で言うと、島田は怪訝そうに俺を見る。
「何って、別にいつも通りだよ。オプションはちょっとつけたけど。見る?」
島田は鞄の中をガサガサいわせながら探り、中から一枚の見積書を取り出した。引ったくるようにして受け取り内容を確かめる。
……確かに、商材自体は俺たちの主力商品に違いなかった。オプションにしても、いろいろつけてはいるが想定内だ。
違うのは原稿サイズだ。普通このくらいの規模の会社なら安い小サイズで掲載するものだが、なぜか最も高額な特大サイズの原稿を受注している。
「なんでこのサイズなんだよ。必要ないだろ、あんな会社に」
頭に血が上っている。口調がさらにキツくなった。さすがの島田も様子がおかしいと気付いたのか、唇を尖らせて俺の顔を覗き込む。
「ちょっと、さっきからなに怒ってんのさ」
「お前、どんな手を使ったんだよ。どうやってこんなインチキ見積もり飲ませたんだ?」
ひどい言い方だと思った。だが、止まらなかった。M社の出来事が頭をよぎる。
それに、言ってしまえば、その通りだと思った。こいつはどうしてこんな非常識な提案をしているのか。何か弱みでも握って無理やり契約させたのか。こんなことなら、俺がM社に持っていった提案のほうが何倍も誠実だ。そんな俺の提案が弾かれて、どうしてこんな奴のこんな提案が通るのか。
「どんな手って、そんなの、いつもと同じだよ」
「だから、それがどんな手かって聞いてんだよ!」
声を荒げた。向こうの方で、事務員がこちらに視線を寄越したのが見える。
島田は数秒間俺を見つめ、それから微かに視線を落として言った。
「その会社のことを一生懸命考えて、一番いいと思うプランを本気で提案するのさ」
思わず黙った。
本気。
またそれか。どいつもこいつも一体何なのだ。
「なんだよそれ、意味わかんねえ。だいたいお前――」
言いかけた時、デスクの上の携帯電話が震えた。今度は島田のではなく俺のiPhoneだ。
頭が瞬時に切り替わり、反射的に手に取った。どこかの取引先が掲載依頼の電話をかけてきたのかもしれない。あるいはM社からの、やっぱり御社にお願いしたいという連絡か。
しかし画面を見た俺は思わず唾を飲み込んだ。大きく息を吸い、やっと応答ボタンを押した。