「ハッテンボールを、投げる。」vol.12 執筆/伊藤英紀
文字がない時代。紙がない時代。印刷がない時代。
人間は伝えたいことを口で話し、理解したいことを耳だけで腹に落としていた。
知りたいことを口で質問し、その教えや情報を耳だけで脳にきざんでいた。
耳をそばだてて集中しないと、何も得られない時代が、人間にはあった。
だから、耳は、えらい。
自分がしゃべるばかり。他者の話にまったく耳を傾けない人。
「ねえ。耳、忘れてきたの?」と問いたくなる人がいる。
こんな人と同席すると、まるで酒を無理強いされているよう。
悪酔いして気分が悪くなるときがある。
対話は、口じゃない。口と口が対峙するだけじゃ、できない。
それ、ただのツバのひっかけあい。自慰行為の見せっこ。
ぜんぜん色っぽくない変態。
耳と耳が参加して、やっと対話になる。
好きな人ができたら、
「ちいさい頃、どんな子?」「どんな高校時代?」「どんな家庭?」
会話のあいまに、そんな質問がそれとなくまざる。
つい、耳人間、になってしまう。
私は、会社の理念をつくったり、
会社やサービスの見せ方をよりよくするお手伝いをしている。
ここでも、耳がちからをくれる。
質問する。答えが返ってくる。また質問する。また答えが返ってくる。
答えと答えがつながりはじめる。
さらに質問する。さらに答えが返ってくる。
答えという部材がいろいろ集まりはじめる。手もとの部材を組み立てはじめる。
追いかけてしつこく質問する。奥の方から答えが返ってくる。
柱という部材が手に入り、組み立てが、すこしずつカタチを成してくる。
カタチを点検して、すきまを埋めるように細かく質問する。
掘り起こしたような答えが返ってくる。
質問は、単純な不明を解消するための手段ではない。
質問を連ねることで、答えと答えが有機的につながりはじめる。
単発の答えではわからなかった“意味”を持ってふくらみはじめる。
お、この答えが土台だな。で、それが大黒柱。あれが壁材だ。
ばらばらだった答えという部材が秩序だち、
会社全体のデザインと構造が見えてくる。
会社理解が深まり、埋もれていた“長所”やら“強み”やら、
“これからやると面白いこと”やらが、発見できる。
質問する私も、答える社長も、口以上に、耳のちからを使っている。
社長も、私の質問と自分の答えを自分の耳で聞いて、
自社のことを改めて、再認識、再発見しているのだ。
取材とは、単なる聞き取りではない。
質問する側の人間。答える側の人間。両者の耳による、創造活動なのである。
御社。耳人間、いりません?
社長。耳人間に、なりません?
*投げる、改め、ころがす。「経営・ヒト・組織」についてのコラムよりも少し軽やかに、伊藤さんの考えを綴ったエッセイ。「ハッテンボールを、ころがす」。
1件のコメントがあります
耳人間に、わたしはなりたい。