HR 第4話『正しいこと、の連鎖』執筆:ROU KODAMA
SCENE:039
「失礼します」
怯えからか、男の声は掠れていた。社長室、と仰々しい明朝体で書かれたプレートの下、他とは明らかに違う、重厚な作りの扉が開いていく。
部屋の中の様子が徐々に明らかになっていく。男ほどではないが、俺も当然、緊張を感じていた。何しろ、BAND JAPANの社長室なのだ。もっとも、当初イメージしていた状況とはひどく違っているわけだが。
最初に気付いたのは、敷かれた赤黒い絨毯だ。毛足が長く、ひと目で高級品と分かる。そして、壁に沿って設えられた棚。全面ガラス張りで、何かのトロフィーや楯、高そうなオブジェが並ぶ。その横にはゆったりしたベージュ色のソファセットとローテーブル。そこには一人の若者が座っていた。まさか彼が社長? ソファのリラックス感と明らかにアンマッチな、背筋をピンと伸ばした座り方。
やがて扉は全開になり、俺たちの正面奥、壁際に置かれた大きな執務机の向こうに、俺は一人の男の姿を認めた。
男は余裕のある笑みを浮かべ、こちらを見ていた。間違いない、社長はこっちだ。浅黒い肌、きっちりとオールバックにされたシルバーの髪、派手なネクタイ。五十代半ばくらいだろうか。机の上で組んだ手にはゴテゴテと宝石のようなものがついた腕時計をはめている。男はゆっくりと立ち上がり、スーツのボタンを丁寧に止めながらこちらに進み出た。
「社長、失礼いたします。こちら、アドテックアドヴァンスの――」
「ああ、わかってる」
やはりこの男が社長のようだ。身長が高く、引き締まった体つきをしている。着ているスーツもかなり高そうだ。だが、なんというか、一般的なサラリーマンとはセンスが違う。全体的に妙にゆったりしたシルエットで、ビジネスマンというより、それなりの地位にあるヤクザのように見える。
「はじめまして、槇原です」
男はそう言って、高橋に名刺を差し出した。真っ白の紙に槇原忠生という名前だけが書かれた、政治家のような名刺。
「高橋です。よろしくお願いたします」
高橋も自分の名刺を差し出す。槇原はそれを受け取りつつ、名刺ではなく高橋の顔に視線を留めたまま、「よろしく」と目を細めた。まるで、値踏みするような、いやらしい目つきだった。
俺も名刺を……と慌てて胸元を探ったが、槇原は気持ちいいほど躊躇なく俺を無視すると、「さあ、こちらにどうぞ」と高橋の肩に軽く触れるようにして、ソファの方に促した。
「さあ、座って」
槙原社長はそう言って、さっきから微動だにせず座っている若者の隣に腰を下ろした。彼は一体何なのだろうか。年齢は俺と同じくらいだろう。重要なポジションに就いているような雰囲気でもない。
槇原社長の向かい側に高橋が座り、俺はその隣だ。腰を下ろす瞬間、槙原社長が俺をチラリと見た。その顔には笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。俺は居心地の悪さに思わず視線を落とした。
「それにしても、驚いたな。噂以上だ」
槙原社長が背もたれにゆっくりともたれながら言って、隣の若者に「なあ?」と同意を求める。若者はピクリと肩を震わせると、満面の笑みを浮かべ、こちらが驚くような大声で言った。
「はい、大変おキレイで、自分も驚きました!」
なんなのだこの男は。だが、それはそれとして、俺は直感的に、なぜ俺たちがこんな奥にまで招かれたのか理解しつつあった。普通の商談はあのジャングルみたいなロビーでやるのだと高橋が言っていた。それなのに俺たちは、あの厳重な二重扉を抜けて、しかも「社長室」にまで通された。なぜか。
……このエロオヤジが。
社長は明らかに、高橋に興味を持っていた。詳しい経緯はわからないが、槇原社長は次の担当営業がすごい美人だという情報を得たのだろう。それで、自分のテリトリーに招き入れることにした。
確かに高橋は、男たちの目を釘付けにするような美人だ。社長くらいの年代の男にとっては特に、たまらないのかもしれない。だが、それはあくまで「本音」の話だ。ビジネスの場、それも初対面の場で、女性の容姿について話題にするなんて。場合によっては「セクハラ」と捉えられてもおかしくない状況ではないか。
「私もこれまでたくさんの営業に会ってきたが、あなたのことは忘れないだろうな」
まさかこの場で口説き始める気じゃねえだろうな。社長やこの部屋の雰囲気に飲まれていた俺も、さすがに怒りを感じる。だが、当の高橋は特に気にする様子もない。「光栄ですわ」と言いつつ、カバンの中から資料や書類を取り出し始める。慣れているのだろう。
広告業界には、女性の営業も多い。仕事の中で、客からこの手の扱いを受けることも、ないとは言えない。いや、成績のよい女性営業たちは、むしろ自分の「女性性」をうまく使って契約を取っている面もあるのだろう。特に個人店や中小企業などが相手の営業二部や営業三部では、商談後の居酒屋につきあうことも珍しくないと聞いたことがある。いわゆる「枕」まではないにしろ、多少の「隙」を見せることは、重要な営業テクニックのひとつなのだと、他でもない女性営業自身が言っているのを聞いたこともある。
「お仕事の話をさせていただいても?」
高橋が言うと、社長は笑った。
「おや、つれないね。……だが、そうしよう。美人の機嫌を損ねたくはないからな。おい柳原、例のものを持ってこい」
社長はそう言って、俺たちをここまで案内してきた痩せた男を呼び寄せる。柳原と言うらしい。壁際で所在なく立ち尽くしていた柳原が慌ててソファに駆け寄り、クリアファイルに入った書類を一枚取り出し、社長に手渡す。槇原社長はそれを一瞥すると、テーブルの上に置き、ゆっくりと高橋の方に滑らせる。
「今回の件、これくらいの予算で考えているんだがね」
俺は目を凝らしてその内容を伺う。見積のようだ。だが、AAの出した見積書ではなかった。左上に「B」のロゴが入った、BAND側のテンプレートで作られている。微かに「採用」の文字が見える。……おそらくは今回の採用予算の概算を出したものなのだろう。ここからでは細かい字までは見えないが、一番下にある合計金額はフォントサイズが大きく、よく見えた。
……1200万?
いや、ちょっと待て。