泉一也の『日本人の取扱説明書』第19回「他力の国」
著者:泉一也
日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。
「他力本願はあかんで」という言葉を親から何度も言われた記憶がある。<人任せにせんと自分のことは自分でせえよ>という意味だった。自立心を養うための言葉であるが、本来の意味を調べてみたらえらいことがわかった。
「他力本願」とは、法然上人(浄土宗開祖)という偉いお方の有難いお言葉であった。実家は浄土宗(たぶん、、)の家系で法事では本願寺に参拝するのに、この有難いお言葉を否定的に使っていたわけだ。法然さん、どうもすいません。ちなみに、日本人の仏教宗派のうち浄土宗と浄土真宗(法然の弟子の親鸞が開祖)を合わせると1400万人で最大(文化庁平成26年調査)。私のようにどの宗派か自覚のない人が多いのだろうが。
法然さんは平安時代末期から鎌倉時代初期の高僧であるが、当時、仏教界では自力によって悟りを開く修行が主流であった。その修行を優秀な成績で修めたエリート僧(層)が生まれ、彼らが仏教界で幅をきかせていた。もともと仏教とは、悟りを開いたお釈迦様が「この境地は誰にも教えることができない」と自分だけのものにしていたが、梵天(偉い神様)に説き伏せられ、大衆の人たちを救うため説法をされたのが始まりだという。法然さんは思ったのだろう。「仏教が始まった本来の目的を忘れてるやないか!」。そして大衆向けの新しい仏教を広められた、こんな言葉で。
「南無阿弥陀仏と唱えるだけで、救われるよ。極楽へいけるよ」
そんな安直なことを言われたらエリート僧たちはたまったものではない。我慢し、苦行し、必死に掴んだ地位が意味をなさなくなる。案の定、エリート僧たちの法然イジメが始まり、挙句に法然さんは京を追放された。
歴史とは繰り返すもので、現代は「自力社会」であるので他力本願は否定され、法然さん的な人は追放されてしまう。私も会社を場活しようとしたら、組織ヒエラルキーの中で、我慢し苦行をしてきたお偉い役員たちに「出禁」にされたことが何度かある。しかし、その後があるのだ。追放された法然さんは京に呼び戻され、天皇の支援を受け、日本中に浄土宗として広まっていったのだ。これは本来の日本が「他力社会」という証拠であろう。私も、出禁会社から呼び戻され、場活が再開したこともある。