「ハッテンボールを、投げる。」vol.47 執筆/伊藤英紀
働く私たちは、単に消費される労働力ではない。経済活動に寄与するための購買力でもない。会社を運営するための材料でもない。
なんてことないことで大ハシャギしたり、ちょっとしたことでニヤニヤ喜んだり。やるかたない鬱積や孤独やスケベごころなんかもガッチリ抱えてこんでいる、人間である。
理性や論理ではとても割り切れない。矛盾と不合理まみれで、無意識のカオスだらけの混沌とした人間である。
「ビジネスパーソンとして成長したいなら、人間として成長しろ。」そんな訓示をよく耳にする。その通りだ、とは思う。というか、そうしなければ働いて生きていくかいがないよね、とも思う。
が、しかし。それって、どういうことなんだ?と改めて立ち止まってみると、けっこうよくわからない。そこで、考えてみる。
睡眠、日常に最低限必要な雑用、通勤などの12時間を除いて。働く人が一日の3分の2以上をビジネスに打ち込んだり、追われたりしているからといって。
働く人の人生の3分の2以上が、ビジネスでできているわけではない。
働いている最中にも、その背中ごしには、仕事とは無関係なウキウキ浮かれた気持ちやら、いろんな悩みや苦しみやらが、決して絶えない波のようにザワザワと押し寄せつづけているのかもしれない。
企画書を集中してつくっているその脳を、親子で考え方がすれちがって衝突してしまう苦渋や煩わしさが、薄い皮膜のように覆っているのかもしれない。
外からは見えないが、同僚とのミーティングが途切れたそのハザマで、男女のすれちがいやSEXや結婚への切実な苦しみがふと胸を突いて、息苦しくなっているのかもしれない
好きなゴルフをしていても、パーッとカラオケで大騒ぎをしていても、ふとしたときに、過去のしこりがひょっこり顔を現して、思わず自分の心の中を覗き見して、重い気分に瞬時とらわれたりしているのかもしれない。
会社員として働くことと、人間として生きることは、ルーと白飯が左右にキレイに分かれたカレーライスのようなものでは、決してない。
スプーンでぐちゃぐちゃに掻き混ぜた後のように、行儀が悪く渾然としているものだ。
家族のいびつな関係の居心地の悪さ。同僚や友人との心が通いきれない微妙な人間づきあいのしんどさ。人には言いにくい、心身の健康上の不調。空気というやつに圧迫され支配される生きづらさ。
空気を忖度するから一体感があるように見えるが、裏返せば他者攻撃でも一体になってしまう社会や組織への恐怖感。弱者のがわに転げ落ちそうな不安感。
故郷の地縁とか血脈とか、そんなつかまえにくいものへの漠然としたひっかかり。政治がムチャクチャで、この国はどうなっちまうんだろうという失望。
このような人間にとってものすごく切実な問題を、「さあ、仕事だから」といって服をパッパと脱いで洗濯機に放り込むように、自分から完全には切り離すことができないのが人間だ。
ビジネスタイムであろうが、生きているのだから、人間はそれらをどこかでひきずる。それらによって、人間はどこかでひきずられている。
となれば、「ビジネスパーソンとして成長したいなら、人間として成長しろ」という訓示は、どう解釈するのが妥当なのか?
言うに言われぬ混沌をひきずる人間を和らげたり、ひきつけたりすることができる人間にならなければ、一角のビジネスパーソンへは成長できない、カオスだらけの人間をまとめていくことはできない、ってことだな。
ああそうだ。僕たちの身近に、言うに言われぬ混沌をひきずる人間を和らげたり、ひきつけたりするものって、あるよねえ。なんだっけ?
そりゃ、あれだ、文学や文芸じゃないか。ゲージツや学問ってやつじゃないか。なんだ、そうか、そうつながっていくのかいな、と僕は一人勝手に合点してしまいます。
ビジネスマンよ、文学や文芸をもっと!芸術や学問も楽しもう!だ。
「ビジネスパーソンとして成長したいなら、ビジネスの論理やマネジメント言語だけじゃぜんぜんダメよ。人間は、そんなものだけでは動かされないからね。」
「文芸的な香りがする受容力や、語りかけみたいなものを持つ人が、混沌とした人間を和らげたり、ひきつけたりできる。人望が集まる。」
そういうことだろう。
ビジネスの損得感覚と、文学とか文芸的な受容力や語りかけのせめぎあいの中で、人間として成長すること。
これが、きわだつビジネスパーソンになるための一つの条件なのかもしれませぬ。ヤバイ!