「ハッテンボールを、投げる。」vol.71 執筆/伊藤英紀
先日、若い友人が結婚しました。よい結婚式で、懐かしい知人にも会うことができ、楽しいひと時を過ごしました。
その友人は「人生の先輩として短いスピーチを」と言うのですが、よりにもよって「結婚について話して欲しい」とテーマを絞ってきたのです。酷なお題を投げるヤツです。
仕方がないので、つらつらと話す内容を考えていたのですが、どうにも重苦しいスピーチになりそうだったので、こりゃイカンということで、もうちょっとライトな話をさせてもらいました。
というわけで、棚上げしたこの重苦しいバージョンが行き場を失ってぶらぶらしておりますので、このコラムに腰を下ろしたいと思う次第です。
結婚というものは、これから二人で未来をつくっていくものですね。反対する人はあまりいないでしょう。
そしてこれまた、多くの既婚者がうなずくと思いますが、その二人の未来づくりはまことにもって難儀です。
難儀さの理由はいろいろありますが、私が思ういちばんの手ごわさは、未来づくりは未来だけを見つめていても決して成し得ないという点にあります。
未来をつくるためには未来よりもむしろ、二人の過去に向きあい続けなければならない、という厄介なハードルがあるのだと思います。
人生はマラソンのごとし、なんて言いますが、マラソンなのにハードル競技のようにずっと障がい物が配置されているんですから、そりゃ息切れして逃亡する人が続出するのも当然といえば当然です。
未来をつくるためには、二人がそれぞれの過去に向きあわざるを得ない。そして過去に向きあうからこそ胸苦しい葛藤や腹立たしい悶着や衝突が生まれてしまう。
過去には、二人の生い立ちと家族というものがあります。こいつとお互いが向きあうことで、つばぜりあいのようなものが起る。
結婚したらお互いを尊重せよ、はお互いの生い立ちや家族を尊重せよ、でもあるのだ。と、クチではなんぼでもそーゆーキレイごとは言えるんですけどねえ。
ところが現実は、どいつもこいつもだいたいつばぜりあうんですよ。
尊重尊重、敬愛敬愛と念仏のように唱えたところで自制心というやつはモロくてすぐに決壊する。そして、ポロリと大中小の悪意を言葉尻や表情ににじませてしまう。
人間は考える葦である、かもしれないけど考えたところで結局じぶんビイキ身内ビイキする葦である。そう思います。
自分の家族のクセ者ぶりには至って寛大だが、配偶者の家族のちょっとした欠点はものすごく鼻につく。配偶者が自身の家族と楽しく親密にしていると、マザコン、ファザコン、ブラコンだと難癖をつけヘソを曲げたりする。
曲げているくせにそこを指摘されると「ぜんっぜん、気にしてなんかないよ。ヘンな言いがかり。あんたこそ何かひがみでもあるんじゃないの?」とシラを切って逆ギレしたりするからタチが悪い。
ちっちゃな利害と自尊心をめぐり、邪推にまみれて綱の引っぱりあいだ。二人で幸せな未来をつくるために結婚したはずが、それぞれの生い立ちと足元の家族という過去にがんじがらめになっていく人も多いのではないか。
「禍は過去からやってくる」という格言があった気がするが(ないか?)、過去というのはズブズブと人を引きずり込む根深さがありますね。
「ロミオとジュリエット」という誰もが知るシェークスピアの戯曲があります。内容を超簡単おおざっぱにいうと、恋する二人は支配階級である両家の不和に悩んでいる。過去のいきさつから両家は衝突しているわけです。
過去の因果から結ばれない二人、ぜがひでも結ばれたい二人は、いろんな偶然や不運な事件のすえ、共に自殺へと追い込まれてしまう。ことの経緯を知った両家は哀しみのなか和解へ、という悲恋ものです。
このストーリーを、「愛をはばむ障がい物はいつも家族という足元の過去であり、その衝突である」「二人が死なない限り、両家の利害のひっぱりあいは永遠に消えないものだ」と絶望的に読み解けないこともありません。
逆にいうと、記憶を失った過去のない男と女、あるいはお互いに触りたくない過去を持つ男と女ならば、うまく労わりあって愛を育みやすいのかもしれない。
ド演歌の「昭和枯れすすき」みたいだなあ。
結婚は二人の未来づくりというよりは、二人が二人の過去から自由になって幸せをつかむための二人の修行なのかもしれません。
どうですか。この結婚式のスピーチのようなまとめ方!僕も大人になりました。なんにしても、こんな内容ではスピーチにはなりませんけどね。
このような書き方をすると、これから結婚する人に悪いという意見もありますが、大丈夫です。
結婚前の二人というのは、「私たちは、ぜえったいそんなふーにならないもん。だよねえ〜」ですから。
人間はそんなふーに幸せな生き物ですし、結婚はそんなふーに幸せな行事です。お幸せに!