「ハッテンボールを、投げる。」vol.72 執筆/伊藤英紀
私から離れて遠いところへいってしまった。
時間的に遠くへ。
距離的に遠くへ。
心情的に遠くへ。
死別により遠くへ。
そんな人や風物の「面影」を、
私たちは日々どのくらい見ているのだろう。
光が眼球を通過し、映像が視神経を経て
脳に伝達されて見える現実。
そんな「現実と呼ばれる現実」だけを、
人間の眼と心と脳は
見ているわけではない。
単なる幻影だ心象風景だと
まわりは笑うかもしれないが、
揺るぎのない実感として、
人はそんな「個的現実」を
現実に見ることがある。
他者にとっては幻影でも、
その人にとっては実存なのだ。
きょうも街角では
面影たちが、
誰かの眼にいくつも
映し出されていることだろう。
ときには姿を変えて。
ときには視覚ではなく、
匂いや音、手触りへと感覚を変えて。
しかし実存として。
小林秀雄の文章を紹介したい。
(※以下、『小林秀雄全作品 別巻1』11-12頁より抜粋。)
母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかつたし、話したことはない。尤も、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」という題を思い附いて、よほど書いてみようと考えた事はある。今は、ただ、簡単に事実を記する。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れることが出来なかった。ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に附する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困ったことがある。実を言えば、私は事実を少しも正確に書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼(か)も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる。つまり、童話を書くことになる。後になって、私が、「或る童話的経験」という題を思い附いた所以である。
小林秀雄は言う。
「寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。」
僕はテクノロジーがつくる未来を
楽しみにしている。
優れたテクノロジストたちの
言葉にも好奇心を刺激される。
しかしもし、
巨大産業が作り出すテクノロジーが、
このような童話的経験が
減退していく世界へと
人間を誘導するのであれば。
テクノロジーが到達する先は、
悪夢のような退化した社会であり、
生みだすのは
荒涼たる劣化人間ではないか。
優れたテクノロジストたちは、
そこと戦うために
ニーズに踊らされることなく、
新しい社会ビジョンを先導して
描こうとしているのかもしれない。
別離しても消えない思慕が、
面影を実存のごとく映しだす。
面影だらけの世界は、
悲しみでいっぱいだが、
悲しみが多いからといって、
喜びが少ないわけじゃない。