「ハッテンボールを、投げる。」vol.74 執筆/伊藤英紀
18歳。土屋と山内が最後に会ったときの年齢だ。ふたりは海辺のちいさな町の出身で、地元の中学高校の同級生だった。ふたりは今夜、28年ぶりに再会することになる。
土屋は待ち合わせの新橋の店まで歩くことにした。六本木から溜池を抜けて30分ほどの道すがら、ふたりのこれまでをぽつぽつと思い起こしたいと思ったのだ。
山内との記憶はいいものばかりではない。与えられたものも多いが、奪われたものも多い。土屋は、中学時代に体育館で山内に殴られたこと、放課後に自転車を足蹴にされたことを思い出していた。折れ曲がったタイヤのスポーク。山内から味わったいくつもの惨めな気持ちをいまでも忘れてはいない。
事象だけを見るならば、中学時代はあきらかにいじめ、いじめられの関係であった。土屋は、「山内死ね!死ね!死ね!」と呪詛の言葉でノート一面を黒く汚したこともある。
それでも土屋に、山内を恨む気持ちは不思議とない。16歳でジャズを教えてくれたのは山内だった。キューブリックやヴィスコンティーの作品も、映画通の山内がそばにいなければ10代で観ることなどなかったであろう。
「いまの俺があるのは、思春期に山内に感化された影響が大きい。」土屋はいま映像プロデューサーをなりわいとし、17歳年下のモデルと結婚している。山内は外資系の製薬会社の執行役員。ふたりともいわゆる成功者の部類である。
私立病院の息子である山内と、救急車の運転手の息子である土屋。卑屈な感情と憎悪で山内とつながっていた中学時代。そして音楽と映画と文学、女への傾倒という共通項で、そんな中学時代に蓋をして、対等な友人として交わった高校時代。
高校生になった土屋は、身体も大きく強くなり、知的にも成長した。山内をはじめとする理知的な不良たちを前に、それまでの屈辱と負債を回収するかのように女たちとの性的関係を扇情的に語り、映画評も意気込んで開陳した。
山内も土屋も、ふたりがかつていじめいじめられの関係であったという過去に蓋をした。高校時代の友人は誰一人その事実を知らないし、ふたりの間でさえ、そこに触れることはなかった。
土屋は虎ノ門を過ぎたあたりで、そんなふたりの10代の成り行きを回想していた。「この蓋はふたりの共犯のようなものかもしれない。ふたりともふたりの間に蓋があることを感じながら、蓋があることにさえ蓋をして笑いあっていた。」
ほどなく待ち合わせの店にたどり着いたが、土屋は店の引き戸の前でためらった。間口にスタンドの灰皿を見つけた。土屋はタバコに火をつけた。風のない夜だった。街の灯にタバコの煙がゆらゆらと消えてゆく。
一本のタバコが灰になる間に、蓋が開きかけた夜のことを土屋は思い出した。土屋は早稲田、山内は京大に合格し、それぞれの恋人をまじえて飲めもしない酒を酌み交わし、二人してローカル線の薄暗い駅の便所で吐いた。吐瀉物には初めて飲むワインの赤が混じっていた。
がら空きの電車の中、隣に座った山内はろれつが回らない口でつぶやいた。中学んときさあ、オレ、おマエにひどいこと…土屋は山内のつぶやきにかぶせるように、あるいは逃げるように急に立ち上がり、前の座席に座る恋人を抱えて膝の上に乗せ、はしゃいでみせた。
「あれは、酔って蓋を開けようとする山内を遮りたかったんだな。蓋を押しもどしたあの夜以来かあ…」土屋はタバコを灰皿に投げ入れ、肺に残る煙を深呼吸するように二度三度と念入りに吐き出してから、引き戸に手をかけた。
(つづく)