歴史的に見ると仏教国の日本で、我慢が違う意味合いに変わったのは、明治以降に入ってきたキリスト教文化であろう。宗教を取り入れたのではなく、輸入した憲法や法律といった社会の基盤となる制度にキリスト教的な価値観が染み渡っていたのだ。ドイツの社会学者マックスウェーバーがその著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、プロテスタントの世俗的な禁欲主義が、資本主義を発展成長させたと論じている。
禁欲とは我慢である。その我慢をした者こそ神に救われるのだ。その我慢精神が資本主義に合致した。なので、プロテスタントの多い英国と米国では資本主義が発展し、カトリックが多いイタリア、スペイン、ドイツは出遅れたのだ。明治時代になって資本主義制度を輸入した時に「我慢」も入ってきた。資本主義の担い手となる子供達にすべきことは「我慢」の教育であったのだ。
資本主義の極意は、標準化と大量生産である。そのために、先行投資として資本を投下し、大型の工場や機械設備を元に大量生産する。投資した資本分を回収したらそれ以降は全て利益となる。先行投資をするために金融が発達したのだが、英国ではイングランド銀行という世界初の中央銀行もできた。国をあげての金融資本主義の始まりである。この標準化と大量生産の中で働く労働者には「我慢」が必要である。1日8時間、単純作業を大量に真面目にこなすには、人間にとって「我慢」が必要なのはわかるだろう。
一部のお金持ち(投資家)と、少数精鋭の金融センスを持ったバンカーと、大量の労働者で資本主義は成り立った。そのスタイルを日本も取り入れたことで、明治時代から一氣に資本主義の成長路線を突っ走ることができたわけだ。
その成長路線は終わりを告げようとしている。標準化と大量生産による成長が限界に近づいている。先進国の人はすでに氣づいている。やがて開発途上国の人々も氣づくだろう。新しい車、新しいスマホ、新しい・・もういらんわ。今の機種で十分だし、シェアもできるし、中古でも買える。こうして標準化と大量生産の資本主義は時代遅れになり、新しい経済社会の仕組みが生まれるはずである。そこでは、仏教的な「我慢」を手放す世界が中心となっていくだろう。
最後まで我慢して読んでいただいてありがとうございます。南無・・
泉 一也
(株)場活堂 代表取締役。
1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。
「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。