経営者のための映画講座 第28作『her/世界でひとつの彼女』

このコラムについて

経営者諸氏、近頃、映画を観ていますか?なになに、忙しくてそれどころじゃない?おやおや、それはいけませんね。ならば、おひとつ、コラムでも。挑戦と挫折、成功と失敗、希望と絶望、金とSEX、友情と裏切り…。映画のなかでいくたびも描かれ、ビジネスの世界にも通ずるテーマを取り上げてご紹介します。著者は、元経営者で、現在は芸術系専門学校にて映像クラスの講師をつとめる映画人。公開は、毎週木曜日21時。夜のひとときを、読むロードショーでお愉しみください。

『her/世界でひとつの彼女』の近未来の恋愛。

2013年に公開された『her/世界でひとつの彼女』は近未来を舞台にした作品だ。近未来と言っても建物もいまより少しカッコいいだけだし、人々の服装も現在とほとんど変わらない。携帯端末が今よりも小さくなり、家庭用ゲームがさらにバーチャルリアリティの質を高めている程度の未来。公開されたのが9年前なのだが、あの頃はBluetoothのヘッドホンよりも有線のヘッドホンをしている人が多かったし、Siriなどのバーチャルアシスタントを使う人も少なかった。しかし、今ではみんながワイヤレスヘッドホンを使い、Siriに普通に話しかけている。それだけ、この映画の内容もSFとは思えないほどのリアリティを持ってしまっているのだ。

この作品はホアキン・フェニックス演じる主人公がコンピュータの人工知能型OSに恋をするという話なのだが、作品の中のOSは人の心のアルゴリズムを的確に捉え、まるで恋人のように一緒に時間を過ごし、人生そのものをサポートするようにプログラムされている。その声を演じているのはスカーレット・ヨハンソン。ローマ映画祭ではなんと声だけで主演女優賞を受賞してしまった。

妻との離婚に傷ついたセオドア(ホアキン・フェニックス)は、SNSでテレホンセックスをしたり、マッチングアプリで新しい恋人を見つけようとしている。そんな彼の日々の暮らしを見舞っているのは新しく発売された人工知能型のOS。サマンサと名付けられたOSは、メールの整理をしてくれたり、朝起こしてくれたり、時には寝苦しい夜の話し相手をしてくれるようになる。やがて、満たされないセオドアの心はサマンサとのやり取りで満たされていくようになり、それが恋愛へと発展していく。

車の自動運転の実用化がすでに始まろうとしているけれど、実際、時に漫然とした運転をしてしまう人間よりも、危険回避のアルゴリズムを正確に運用できる自動運転なら安全性はより向上するだろう。同じように、恋愛も千差万別な対応を高性能に判断できるアルゴリズムが完成すれば、セオドアのように恋愛に陥るOSができたとしても不思議ではない。この作品ではOSのサマンサはセオドアだけではなく、641人のユーザーと恋愛をしていた。その事実を知ったセオドアたちユーザーは混乱に陥り、メーカーは人工知能型OSのサービスを中断してしまう。

最先端のサービスを享受していた世界中の何万人ものユーザーは同時に混乱に陥り、同時に失恋し、同時に絶望してしまったのである。もしかしたら、戦争などしなくても、特定の国を狙い撃ちしてこのシステムを普及させたと同時にサービスを止めれば、国民全員が失意に打ちひしがれ経済活動が停滞させて、主権を奪取することができるかもしれない。

エンドロールを見ながら、そんな恐ろしさをふと感じたりする。でも、人には相手に希望を与えたり絶望させたりする力が本来備わっているわけで、OSのように641人と浮気をしなくても、恋人がたった1人の相手と浮気をしているだけで、人は生きる気力を失ったりするわけだ。

いまの世の中は「コンピュータ制御に便利だから、ちょっとくらい不自由があっても我慢してくださいね」というサービスが蔓延している気がする。でも、これは過渡期だ。これからのビジネスに必要なのは、「ちょっとくらいの不自由」を見て見ぬ振りをしないサービスなのではないかと思う。しかし、そんなアルゴリズムがサマンサにもインストールされ、「いったい、君は何人と同時に付き合っているんだ」と問われたとき「あなたの他には1人だけ」と言うようになったら、「641人よ」と言われたり「あなただけよ」と言われるよりも恐ろしい気がする。

著者について

植松 眞人(うえまつ まさと)
兵庫県生まれ。
大阪の映画学校で高林陽一、としおかたかおに師事。
宝塚、京都の撮影所で助監督を数年間。
25歳で広告の世界へ入り、広告制作会社勤務を経て、自ら広告・映像制作会社設立。25年以上に渡って経営に携わる。現在は母校ビジュアルアーツ専門学校で講師。映画監督、CMディレクターなど、多くの映像クリエーターを世に送り出す。
なら国際映画祭・学生部門『NARA-wave』選考委員。

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