会社に属する形で社会人をやっておりますと、素朴に不思議を感じることがあります。
そのひとつは、「だいたい同じ時間に出退勤する人」です。
昨今は特に、業務に合わせて勤務を組み立てられる仕組みも進み、その中でフレキシブルに動く人も増えていますが、年配の人などはそれでも「帰る時間まで一定範囲」のことが多いように見受けられます。
毎日定時退社ならば、おそらく担当している仕事の絶対量が少ないためだということになりますが、帰り時間が一定範囲タイプの人の場合、業務を均した結果がその時間になっている、ということかといえば、そうでもなさそうなのが現実です。
実際、工場のように完全な定量で見積れる内容でもなければ、日々もなにかしらの繁忙の差があるのが一般的です。
にもかかわらず終業が均一なのは、ぶっちゃけ「環境と雰囲気」によるものと、個人的にはとらえています。働き方改革以降は表立ったものではなくなりましたが、周りが残っているから残っている、またはその逆など、個別の職場ではまだまだ存在することでしょう。
正直なところ、それを否定するつもりはありません。
ただ、なぜそのようなやり方に行きつくのか、という意味で、時間と仕事の関係を考察することには一定の意味があるのでないかと思うのでございます。
雇用と被雇用という形態を使い続けるかぎり、完全なパフォーマンスのみ、成果物のみを対価と交換することはできません。「時間を買う」「時間を売る」という土台の上に、成果だとか評価だとかはやりとりされるのです。
しかし、その中で人生を過ごしているうちに、評価するものもされるものも、サラリーで生活しているすべての登場人物は、業界や立場、経験を問わず、いつしかそのルールにある程度染まってしまうのではないでしょうか。
結果が残せず、それまでの労力が溶けてしまっても、または著しい得点を挙げたとしても、そこに時間という資源がどれだけ投下されていたか、という視点がなければ、本質的な評価は成しえません。
能力や努力の有無、上下は誰しもに認識されますが、それらに時間をかけたものが、人的リソースの総量であるはずなのです。

















