十年くらい前、所属していたある集まりで成果発表会がありました。
その日はプレゼンをする持ち時間が各自10分あり、順番に回ってきます。
完全な素人集まりのグループでしたので、
そのプレゼンは質の良し悪しを問われるものではなく、
自分なりにそれまでの成果をまとめて、整理できていればいいものでした。
ただ、一般にそういった類の行事は
高校の学園祭のダメな文化系部活の発表のようなもので、
何も考えず無難にこなしただけでは
だらだらする、内輪受けに終始する、そもそも何を伝えたいのかわからない、
といったことになりがちです。
わたくしはそういうことに慣れていなかったもので
やたらがっちりとした台本を作っていったのですが、
他の方はほとんどそういう準備をされていないようでした。
しかしわたくしの台本には問題がありました。
いきなり本編ではなく、
導入に「マクラ」があるといいのではと思って用意したのですが、
その話の回収ができていませんでした。
本編につなげるために強引にこしらえたエピソードがあったのですが、
自分でその始末をつける方法がどうにも見つけられず、
しかし台本にしたがって進める以外のこともできず、
結局、その部分が中途半端なまま当日になってしまいました。
発表会が終わった後の打ち上げでおどろいたのが、
それまでまったく会話をしたことがない人までふくめて
「マクラのオチがない」ことへダメを出してきたことです。
正直、ほとんどの人が
だらだらと、内輪受けで、何を伝えたいのかわからない発表をしていたので、
わたくしは舐めくさっておったのです。
「どう見ても面白くないことをやっている人が、
他人のことをとやかくいわないであろう」と。
これはもちろん、わたくしの稚拙な思い込みでありました。
人はそういうものではありません。
むしろ、何か新しいモノを作ることができない人こそ
他人を断罪することがその人なりの表現方法であったりします。
今であれば、上に述べたようなちっちゃい例を出すまでもなく
あらゆる種類、階層のSNSにその典型があふれています。
そして、「作る側」の人々の中の一部には
そのことに対してのある自覚が見て取れることがあります。
その自覚とは、
「作る人と作らない人は別のレイヤーに所属し、
平等に交流しているようでも明確に上下がある」
ということです。
今どんなレベルの世界に住んでいようと、
何かを作ること、生み出すことが
無価値でない発言をするための最初の資格なのです。