たっぷり三十秒ほど黙ったあと、社長はため息混じりに言った。
「そうだ」
そして、いつの間にかフィルターだけになっていたタバコを灰皿に入れると、新しい一本を取り出し、火をつける。
「……あなたの言う通りだ、高橋さん。どうやってそんなことまで調べたのか知らんが……まあそれはいいだろう。そう、私は兄が純粋な被害者だとは思えなかった。私は就職活動が始まるタイミングで部活動をセーブした口ではあるが、それでも週に何度かは必ずグラウンドに出て、血反吐を吐きながらボールを追っていた。そんな風にスポーツを通じて世の中の厳しさを既に学んでいた私にとって、兄はあまりにも弱々しく見えたのだ。……俺たちは、常に強くあろうとしてきた。チームに弱いものがいれば試合になど勝てない。俺たちは、強くなることが義務だった。体が辛かろうが心が辛かろうが、そんなものは関係ない。それを乗り越えるだけの強さを身につけるだけだ。……そんな私からすれば、途中で潰れた兄は、負け犬だった。俺は違う。どんなに辛かろうが負けたりなんてしない。だから、高木生命に入った」
社長はそう言って、どこか満足気に背もたれに体を預け、タバコをふかす。ふーっと、白い煙を天井に向かって吐く。そんな社長に高橋は言う。
「そしてあなたは、勝ち上がった。激務やプレッシャーを跳ね除けて、この厳しい環境の中で、着実に認められていった」
「そうだ」
「そして今、役員の座も視野に入るようなポジションに座ってる」
「そうだ」
「お兄さんのこと、今ではどう思うんです? もう20年以上、引き篭もり状態なのでしょう」
槙原社長は「そうだな……」と視線を上げ、どこか穏やかさすら感じる口調で言った。
「どう思うのかと言われれば、かわいそうな兄だと考えている。もはやあの男が人生をやり直すことはできないだろう。だから、俺が支えていくつもりだよ。それが俺たちのような人間の責任だからな」
「俺たちのような人間、とは?」
「強くあろうとし、そして実際、強くなった者のことだ。兄ももしかしたら、強くあろうとしたのかもしれない。だが結果、試練に負けて壊れてしまった。……悲しいことだ。だから俺たちは、より効果的に成長させるためのシステムを必死で考えてきた。それが高木生命の作り上げてきた教育制度であり、営業スタイルなんだ」
「正木さんのような弱い者を、強くするシステム、ですか」
「そう、その通りだ」
槙原社長の目に、再び力が戻った。自分の考えに対する自信、迷いのなさがにじみ出る強い目。
「俺は正木に、兄のようになってほしくはない。潰れてしまう前に、早く“強者”にしてやる必要がある。わからないか? 弱いから潰れるのだ。強くなれば潰れない。俺自身がいい見本だ。皆、俺のようになればいい。強き者から教えられれば、自分も強くなれるし、そして、強くなる方法を次世代の人間に伝えていくこともできる」
「……なるほど。では、話を戻しますが、あなたの考え、そしてターゲット設定は間違っていないと?」
高橋の質問に、社長ははっきりと頷く。
「だから言っているだろう。私は自分の成功体験に基づいた考えでやってるんだ。そもそも、これは何も俺独自の考えってわけじゃない。大学時代の部活の監督からチームメイトたちも同じだし、何より高木生命で成功してきた人たちは皆こういう考え方だ。つまり俺は、高木生命の伝統に則っているだけなんだよ」
「ではあくまで、正木さんのような方を対象に採用を行うわけですね」
「くどいな。それが正義になる世界なんだここは。これは高木生命の伝統だ。偉大な先輩たちからずっと受け継いできた大切な成功のメソッドなんだ」
「偉大な先輩、と言うと? 憧れの先輩がいらっしゃったんですか?」
高橋がそう話の矛先を変えると、槙原社長はいよいよ安心したのか、リラックスした雰囲気で言った。
「ああ。数々の先輩がいらっしゃるが、私にとってはなんと言っても都筑先輩だな。かつて俺の教育担当になってくださった方だ。その後は目の見張るような出世をして、数年前までは役員にもなっていた。都筑先輩はあらゆる面で俺の見本だった。憧れたもんさ。……そうだ。俺がこの理論を本気で正しいと思っている証拠を言おうか」
「ええ、ぜひ」
槙原社長の顔に、あのヤクザの組長のような、凄みのある笑顔が浮かんだ。
「その都筑先輩は、俺の兄の教育担当でもあった方だ」
「え……」
声が漏れたのは高橋ではなく俺だった。なんだそれは。自分の兄をあんな風にした先輩に、この人はこれほど憧れているのか?
混乱が押し寄せてきて、そしてそれは、すぐに恐怖に変わった。自信満々でそう言う槙原社長が、自分とは相容れない人間に思えた。一体なんなんだこの人は、いや、この会社は。
高橋も同じ気持ちなのだろうか。社長を前にしばらく黙り込んでいたが、やがて小さくため息をつくと、スッと立ち上がった。
「おや……帰るのかね?」
余裕のある表情でそう聞く槙原社長を無視するように、高橋はカツカツカツ、と音を立てて出口の方へと歩いていってしまう。ちょ、ちょっと待て、と慌ててあとを追おうとしたとき、ソファのところに高橋のカバンが置きっぱなしであることに気づいた。忘れているのか?
仕方なくソファに駆け寄ってカバンに手を伸ばした時、背後で扉の開くガチャっという音が聞こえた。
次の瞬間、ハッとして振り向いた俺の目に、意味不明な風景が飛び込んできた。その意味を理解する前に、高橋が言った。
「今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に」
(SCENE:054につづく)
児玉 達郎|Tatsuro Kodama
ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。
お仕事のご相談、小説に関するご質問、ただちょっと話してみたい、という方は著者ページのフォームよりご連絡ください。