HR 第4話『正しいこと、の連鎖』執筆:ROU KODAMA
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SCENE:054
BAND JAPAN、厳密に言えばそのオフィスの奥に存在する“高木生命”の事務所。その社長室の扉の向こうに現れた奇妙な風景に、俺は数秒間、白昼夢の中にいるような気分になった。
何が起きているのかわからず視線を彷徨わせた俺は、扉の形に四角く切り取られたその風景の一番奥に、柳原の姿を認めた。呆然とした表情。常に不健康そうな雰囲気を醸す男だったが、今は貧血でも起こしたような真っ青な顔をして、眼の前に並んだ人間の背中を見つめている。
柳原の視線の先にいるのは、そうーーHR特別室の面々だった。
眠たげな表情をした室長と、こんな場所にもダボダボのスウェットと汚いスニーカーという格好で来ている保科、モデルのように腰に手を当てて挑むような視線を寄越す高橋。
……そうだ。白昼夢なんかではない。俺はある意味で、こうなることを知っていた。昨晩この面子で行った新橋のバーで、室長と保科も“BAND JAPANへのプレゼン”に参加するようなことを言っていた。
だがそれでも、不可解なことに変わりはない。一体2人は何をしにここに来たのか。どうしてこのタイミングなのか。どうやってあの“ジャングル”を抜け、この「最深部」までやってこれたのか。
そして何より……その車椅子の老人は誰なのか。
室長と保科、そしてその横に立つ高橋の3人の前に、見知らぬ老人がいた。
年齢はどれくらいだろうか。もしかしたら老人と呼ぶような年ではないのかもしれない。ゆったりした開襟シャツを着て、下半身には高そうなタータンチェックのひざ掛け。髪にはまだ黒いものが少し残っているし、体つきも大きく、目つきにもどこか鋭さを感じさせる。しかしそれでも「老人」と感じてしまうのは、なんというか、いわゆる「生気」が感じられないからだろうか。
「都筑先輩……」
俺の後ろで、槙原社長が呟くように言った。それを聞いて俺は、先ほどの高橋の言葉を思い出した。
<今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に>
……やがて室長が一歩前に出て、老人の後ろに立った。車椅子のハンドルに手を置くと、ゆっくりと、だが躊躇のない足取りでこちらに近づいてくる。
「あ、あのっ!」
後ろからヒステリックな声。見れば、柳原だ。
「私には! どうにもできません、社長! 都筑様です! 私に止める権利など!」
その言葉に、今更のように思考が整理されていく。
……そうだ、都筑先輩と呼ばれるこの老人は、先ほどの社長の話にあった「憧れの先輩」なのだ。
柳原からすれば、もっとも恐れる人物である槙原社長の大先輩。いわば雲の上の存在なのだろう。既に引退した人物であることはその風貌からも明らかだが、現職かどうかというのは、少なくともこの会社ではあまり意味をなさないようだ。
都筑老人は妙な表情で槇原社長を見つめた。微笑んでいるようにも、苦笑いを浮かべているようにも、あるいは何かを恥じているようにも見える。何度かゴホゴホと咳払いしたあと、「おう」と掠れた声を出した。
「先輩……どうしてここに」
槙原社長は本当に驚いているようだった。座っていたはずだが、いつの間にか立っている。
「いや……まあな」
曖昧に受け応える都筑だったが、室長が「さあ、こちらへ」と手を差し出すと素直にそれを受け入れ、介助を受けつつ車椅子からソファに移動した。先ほど高橋が座っていた場所に、ゆっくりと腰を下ろす。老人独特のにおいがふっと鼻に届く。
「槇原……まあ、座れ」
都筑の言葉に槇原は戸惑いの表情を浮かべたが、やがて「はい」と頷いて向かい側に座った。
「忙しいだろうに、すまんな……」
「そんな……とんでもありません! こんな所までご足労下さって……ご用事があれば伺いましたのに!」
都筑の前では、槙原社長も一人の“後輩”なのだろうか。その表情には明らかな変化があった。まるで正木のような、どこか作り物めいた笑顔。言葉遣いまで変わっている。都筑はなぜか、そんな槙原社長から目を逸らすように俯いた。そして、呻くように言った。
「槇原よ……俺を恨んでいるだろうな」
「……え?」
「どう言えばいいのか……俺は取り返しの付かないことをしたんではないかと思っている。お前に対しても、な」
「せ、先輩、何を仰います。私を育ててくれたのは先輩じゃないですか! 見て下さい先輩! 私は子会社の社長を任されるまでになりました。これも全て、先輩のご指導のおかげです! 感謝しかありません! 恨んでいるなんて、どうしてそんな……」
「……だが、隆弘は今でも、家にいるんだろ?」