これからの採用が学べる小説『HR』:連載第5回(SCENE: 009〜010)【第2話】

HR  第2話『ギンガムチェックの神様』執筆:ROU KODAMA

この小説について
広告業界のHR畑(求人事業)で勤務する若き営業マン村本。自分を「やり手」と信じて疑わない彼の葛藤と成長を描く連載小説です。突然言い渡される異動辞令、その行き先「HR特別室」で彼を迎えたのは、個性的過ぎるメンバーたちだった。彼はここで一体何に気付き、何を学ぶのか……。これまでの投稿はコチラをご覧ください。

 


 SCENE:009


 

 

総武線快速が東京駅に差し掛かってスピードを落としていく。狭い車内に押し込められて一つの生き物のようになっていた人間が、そわそわと身じろぎする。
やがて停車し、扉が開いた。いつもの下車駅。思わず足を踏み出しそうになって、慌てて止めた。今日の行き先はここじゃない。
降りていったのは、どことなく高級感のあるビジネスマンやOLたちだ。車内に残っているのは、彼らに比べて何となくパッとしない地味な人たち。今日は自分もその中の一人なのだと考えると、嫌な気分になった。
扉が閉まり、電車が動き出す。
車窓の外を東京駅の風景が過ぎ、やがて商業施設の立ち並ぶ有楽町が見え、すぐに目的地である新橋の町並みになった。丸の内とは明らかに違う、ゴチャゴチャして古めかしいオフィス街。
電車を降りて日比谷口から出る。酔ったサラリーマンのインタビューでお馴染みの、SLのが置かれたあの広場だ。顔を赤くしたオヤジたちが、普段は言えない上司の悪口をマイクにむかってがなる。そういう映像を見るたびに、なんてバカなんだと思う。悪口を言われた上司がその映像を見ている可能性もある。あるいは見ていなかったとしても、このネット社会だ、SNSなどを通じて本人の耳に入ることもあるかもしれない。それが原因で出世がパーになるかもしれないとは考えないのだろうか。吐き気がする。
俺はあらためて、新橋の町並みを見回した。金曜の朝8時。さすがに酔っている者はいないが、量産型の地味なオヤジたちが、死んだような目をして雑多な新橋の街に飲み込まれていく。
「なんで俺がこんな……」

思わずつぶやき、東京方面を振り返った。自分の職場が入った背の高いオフィスビルが微かに見えていた。ガラス張りのイケてるビル。

昨日、鬼頭部長から電話があって、2週間後のスタートだったはずの研修が、急遽今日からになった。こちらの都合などお構いなしだ。俺としてもM社の件があるから受け入れざるを得なかった。研修先は「HR特別室」。俺の勤務するアドテック・アドヴァンス(AA)の一部署でありながら、なぜか飛び地的に新橋の雑居ビルの中に入っているらしい。

俺は舌打ちするかため息をつくか、どちらにすればいいのかわからないままスマホを取り出し、MAPアプリを立ち上げて所在地の住所を入力する。経路はすぐに出た。徒歩3分。

SL横目に駅前ビル沿いに進み、細い道路を渡って右折。しばらく歩くとGoogleマップが左折を告げた。
「……おいおい、マジか」
そこは完全な飲み屋街だった。道幅は五メートルほど、左右にもつ焼き屋や立ち飲み屋が並び、よく見れば風俗店の紹介所まである。どの店もまだ営業前でしんとしており、さっきまで無数にいたサラリーマンの姿も見えない。歩いているのは、朝から掃除にでもきたのかホウキを持って歩く白い割烹着姿の男や、今まで飲んでいたのかふらつく足取りで壁にもたれる水商売風の女くらいだ。
いよいよ苛立ちが募った。どうしてこんな所に……不快なものを目に入れないよう俯いて道を進んでいくと、スマホのディスプレイの中で、自分の居場所を示すアイコンと目的地がすぐに重なった。
足を止め、視線を上げる。
そこはまさに雑居ビルと言うにふさわしい、白壁の古びたビルだった。入り口に脇に書かれたビル名は、間違いなく鬼頭部長からの資料に書かれてあったものだ。あまり高さはない。恐らく7階か8階建てくらいだろう。AA本社の入るビルとはえらい違いだ。
おいおい、勘弁してくれよ、そう思いながらガラス戸を押して中に入る。右側に銀色の郵便受け、2段だけの階段を上がると、正面にエレベーター。薄暗い照明、何となくかび臭い。気が進まないが仕方ない。俺はエレベーターのボタンを押した。すぐに扉は開き、AA本社でいつも乗っているワンルームマンションほどの広さのエレベーターの十分の一もない狭いボックスに入った。
行き先は、7F、HR特別室。
結局、HR特別室に関する情報はまったくと言っていいほど与えられなかった。わかっていることと言えば、俺が今日から一週間ここに出社して研修を受けること、それだけだ。研修の目的も、内容も、その対象者がどうやら俺一人らしいことの理由も、まったくわからない。M社の件で負い目のある俺は、この情報の少なさに対しても文句を言うことはできなかった。まして、相手はあの鬼頭部長なのだ。
そして俺はふと、昨日の電話の最後に、鬼頭部長が口にした意味深な言葉を思い出した。
HR特別室はそう甘くねえぞーー
ガタン、とエレベーターが揺れて、やがて扉が開いた。
外観以上に古びた印象。小さな踊り場があり、その左右に一つずつ扉がある。向かって右側はよくわからない独立行政法人の事務所だった。反対側の扉に近づいていくと、その脇にかけられていたプレートが見えた。
クソ、と俺は思った。頭のどこかで、こんな場所にAAの一部署があるはずないと思っていた。AA本社が入るのは東京駅前の一等地、友人誰もが羨む今どきのオフィスビルだ。だが、俺の目は確かに、プレートに描かれたAAのロゴと、その下にある「HR特別室」の文字を認めていた。

しばらく何も考えられなかった。だが、扉の前でずっとこうしているわけにもいかない。俺は意を決してノックし、ノブを回した。