「ハッテンボールを、投げる。」vol.7 執筆/伊藤英紀
経営者で、次のような意見をいう人がけっこう多い。
「セクショナリズムはいけない。会社の成長を阻害する組織課題だ。だからセクショナリズムを廃して、社員全員が経営視点をもって協調し、より集客力と収益性の高い事業へと育成して欲しい。部門間で、お互いを思いやりながらがんばろう」と。
すると社員たちは、経営者のその正論っぽい言い分に、思考を止めて大きくうなずいてしまうのである。
しかし私は、この『あいまいな全社的同意形成』こそが曲者で、いちばんの組織課題であると思う。理由は簡単です。セクションごとの、ときに部門エゴにも映る自己主張や意思表明が生まれる土壌そのものを、破壊してしまう可能性があるからだ。
セクショナリズムという部門エゴを形成するのは当然、個人のエゴである。つまり、「セクショナリズムは悪だ」といきなり決めつけて社員たちを啓蒙してしまうことは、「個人のエゴは悪だぞ」と全社に通達していることとほぼ同義なのだ。
エゴとは自我のことである。もし経営者が若いときに、「自我を抑えろ」と命じられたらどう感じるか。だいたいが経営者になる人間は、エゴ=自我が強い人種だ。「自我を抑えて波風立てるな」という同調圧力の高い組織なら、先頭を切って「やってられるか」と辞めてしまうのではないか。
「セクショナリズムはいけない」と言われて、胸のうちでニンマリするのは誰か。特に戦略的主張も持たず、創造意欲も高くないが、プライドだけは高い。そんな社員だろう。そんな社員ほど、『新しいアイデアやチャレンジ』を提案するビジョナリーな社員を、うとましく感じる傾向があるものだ。
なぜなら、現状に風穴をあけようとする起案者の溌剌とした創造的姿勢が、まわりの評価ばかり気にしている自分の価値を、相対的に下げてしまうからだ。
経営者は組織を活性化したい、創造的にしたいという。経営視点をもった社員を、たくさん育てたいという。にもかかわらず、「セクショナリズムはいかん」と個人や部門の思考や感情の発露を、まっさきに抑えにかかる。
そもそも経営者自身がエゴの強い人間だというのに、現状を変えていこうというエゴの強い社員の居場所をなくして、均質化を求める社員が喜ぶ精神風土をつくってしまう。そのくせ、経営視点を要求している。
このような矛盾と破壊をはらんでいるのが、「セクショナリズムを廃せ」という乱暴なメッセージなのである。セクショナリズムの廃止に、深い思慮もなく同意した組織はどうなるか。
部門内部でも部門間でも、利己的な主張とみなされることを恐れて、誰からも文句が出ないように意見を穏やかに抑制するだろう(そもそも主張がない社員は、ホッと安心するだろう)。その結果、『まわりをキョロキョロ見るばかりの協調』とやらが、目的化した組織になるだろう。
こうなると、事業を伸ばす戦略的主張は生まれない。「経営視点を持とう」は、形骸化したカケ声で終わる。
これは、『空気を読む悪しき忖度』ってヤツだ。協調という名の『ことなかれの依存心』と『損得への目配り』が会社を支配する。息苦しい忖度村の完成である。新しい試みに踏み出す仲間には、「あいつはわかっていないね」と嘲笑があびせられるだろう。忖度村のお祭りは、目立つ個性への陰湿ないじめである。