喜びを得るための道程は、ゴールのないマラソンのように疲弊する。
企業社会にもまれれば、ときに悪意や瘴気にあてられる。
屈辱に、気持ちがひび割れ壊れそうにもなる。
毒気に感染して、自分もダークサイドに堕ちそうにもなる。
つまり、『自己実現の喜び』を追えば追うほど、深追いするほど、
『仕事によるけがれ』も土砂降りのように身にふりかかり、
人はドロ水でずぶ濡れに汚れ、けがれるのだ。
汚れちまった悲しみに、である(中原中也)。
『自己実現の喜び』があるからこそ、人はなんとか仕事を続けられる、
という側面も、確かにある。が、それだけでは、まずもたない。
精神、身体ともにバーストして、どこかで崩れ落ちてしまうのではないか。
だから、『自己実現』ばかりを追いかける人よりも、
働くほどに降りかかる“仕事のけがれ”を、『自己浄化できる環境』を
手にしている人ほど、長くいい仕事を続けられている。
そんな実感のほうが、私にはずっと強い。
深追い、やりすぎ、はいけないのだ。2000数百年前の論語は、お見通しなのだ。
大和朝廷の貴族たちも、「お前、自己実現追いかけすぎ。必死すぎ」
「大昔のコトバ、知らねーの?過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」と
友に忠告したかもしれない。
多忙で疲労困憊し、野良犬のようにとぼとぼ帰ったとき、
やさしくささやいて抱きしめてくれる恋人。
邪気にあてられて、うらぶれたとき。惨めに意気消沈したとき。
健やかな声、ほがらかな愛情で、汚れた心身を洗ってくれる家族。
いや、人ばかりじゃない。
心がおどるポップソング。清らかな魂を感じる音楽や、
透き通った目で人間の美醜を描いている小説。
知的な関心を奥へ奥へと誘ってくれる哲学や評論。
そんなものも、自己を浄化し、仕事のけがれを清めてくれるのではないか。
けがれを祓うつもりで、たのしくそういうものに触れていると、
運がよければ知識や考え方、物事のとらえ方も深まり、
『自己浄化』が意図せず、逆に『自己実現』を長く後押ししてくれることも
決して少なくない気がする。
人は誰もが、『自己実現の喜び』を味わいたい。だからといって、
自己実現ばかり追っかけていると、心身がもたない。仕事のけがれにやられる。
けがれをじょうずに『自己浄化』できる人が、
コンスタントな自己実現に支えられ、長くいい仕事ができる。
そんなパラドックスがあるのだと思う。
1か月で廃刊になる自己実現本より、2500年前の孔子の論語が、
もしかしたら長い自己実現人生を支えてくれるかもしれない、ということだ。
論語、私は読んだことがないんですけどね。
(次回へ続く)