「ハッテンボールを、投げる。」vol.14 執筆/伊藤英紀
青い山脈。みずみずしい青春ってやつを描いた
石坂洋二郎の戦後の古い小説で、映画も何度かリメイクされている。
主題曲を覚えている人は、昭和の懐メロに詳しい人だろう。
青い山脈、新緑が萌える山脈はゆたかですね。
おなじく、青い文脈を持つ人もゆたかだ。そんな話をしたい。
どんな言葉も解釈が単調で単一だと、
ハリボテのようなペラペラの貧しい理解にしかならない。
たとえば、「考えをつらぬく人」。
骨がある人という賞賛かもしれないが、それはあまりに単調で単一な解釈だ。
その言葉をもう少し横から点検してみれば、
「考えをつらぬく」⇒「考えの固定化」⇒「長い思考停止状態」
つまり、「なんも考えていない人」と解釈することもできる。
解釈のつながり、つまり解釈の文脈が生まれる。
解釈の青い文脈がある人は、
その応用からさらに違う文脈を連ねていくこともできる。
たとえば、こんな発展形だ。
「考えは変わっていいんだな。変わるのは、考えているなによりの証拠だから。」
「ということは、経営方針が10年固定化している今の状態は、
方針が徹底している、というより、10年も方針を考えてこなかったということ。
あちゃ。こりゃまずい!」
と、時代の変化にあった新方針を打ち立てられる。
「あいつはポジションどりがうまい」
という言葉も、単調にとらえるなら、組織や取引先とのチカラ関係を読んで、
利益になる場所を確保するのがとてもうまいヤツという解釈になる。
でも、もう少し解釈の文脈を広げれば、
『今という刹那』のポジションどりはうまいが、
『未来という時間軸』でのポジションどりはヘタクソなのかも、
という解釈も成り立つのだ。
先ゆきが変われば、ポジションは変化する。先が読めなくて、
『今の利益』ばかりを追いかける人物だとしたら、そのポジションどりは
『未来の損失』を抱え込んでいるかもしれないではないか。
このくらいの解釈の文脈をもっている人なら、
未来のないダメ勢力にくっついていって共倒れするリスク、
を下げられる可能性は高まる。