2つめは、社会の変化を受け入れ、賛同推進することですが、考えさせられる論説を見つけたので、それを紹介します。
元外務省主任分析官であり作家の佐藤優氏の寄稿文を、現代ビジネスから引用する。
佐藤氏は、経済学者の井手英策氏の著書『幸福の増税論』(アマゾン書籍ページへ)を引きながら、『勤労』という概念の誕生と、それが日本国民に与えた呪縛を紹介している。
記事タイトルは、<「年収200万で生活は中の上」という層に知ってほしい、日本の病理。格差と分断をもたらした理由>だ。
※以下引用
経済学者の井手英策氏が著した『幸福の増税論』は、財政社会学専門家による日本社会を分析した優れた書だ。江戸時代の二宮尊徳、石田梅岩らの、真面目に働き、質素に暮らし、倹約につとめるのが立派な生き方であるという通俗道徳が、戦前の総動員体制の中で、国家ドクトリンとされたとの指摘が興味深い。
〈勤労という文言がひろく世間に受けいれられたのは、アジア・太平洋戦争期のことである。一九四〇年に閣議決定された「勤労新体制確立要綱」を見てみると、そこには「勤労は皇国に対する皇国民の責任たると共に栄誉」であると書きこまれていた。(中略)
この「勤労しないものは非国民である」といわんばかりの極端な考えかたが政府によって示され、大勢の人びとが戦時体制に動員されていった。
ときには、学業やしごと、健康をも犠牲にしながら、人びとは国家的な強制労働に追いこまれていった。そのときのシンボルともいうべきキャッチフレーズが勤労だった。
その苦い経験にもかかわらず、戦後の日本国憲法には勤労の義務が記され、左派の党の方針にまでも勤労のことばが繰りかえしおどっていたのである〉
日本の政界、官界、財界、労働界、教育界、マスメディアにおいても勤労には肯定的価値観が付与されている。井手氏はこの価値観を転換しなくてはならないと説く。
それは、勤労至上主義が過剰な自己責任感を国民に植え付けているからだ。その結果、国民一人一人が分断され日本社会が著しく弱っている。客観的に自らが貧困状態にあることを認めない心理的障壁が日本社会では強いが、それはデータからも明白だ。
〈衝撃的なデータがある。内閣府の二〇一七年に実施された「国民生活に関する世論調査」のなかで、「お宅の生活の程度は、世間一般からみて、どうですか」とたずねた質問がある。
これへの回答のうち「下」と答えた人は、全体のわずか五%、「中の下」と答えた人が二一・七%、そして「中の中」「中の上」もふくめた「中」と答えた人の総数は、九二・四%に達しているのである。
「国民生活基礎調査」によると、二〇一六年の相対的貧困率は一五・六%である。あるいは、年収二〇〇万円未満の世帯は全体の一七・九%だ。
年収三〇〇万円、手取りで二〇〇万円台半ばの世帯だって相当に生活は厳しいだろう。この人たちなら三一・二%いる。それなのに「自分は低所得層だ」と認める人たちはわずか五%しかいないというのである〉
95%の国民が、自分は低所得層であるという認識を抱いていない状況で、社会的弱者を保護するという政策が社会的に支持される可能性はない。
※引用終わり
勤労という戦時のコトバと概念が、強制力の高いプロパガンダとして、敗戦後70余年経った今も亡霊のように機能しているという指摘は、説得力がある。
殺人的な満員電車や、テンパって残業まみれの日常を、どこか自慢気に笑いながら話す人は、あんがい多い。しんどい自慢というやつだ。勤労はしんどいもので、しんどい自分はまじめな勤労者として、美徳を実践しているというわけです。
戦時のプロパガンダで生まれた『倹約・勤労=美徳』という意識は、100年人生時代の横ばい化する給料を考えたときに、働き手にとってマイナスになるかもしれません。
中高年の給料を引き下げるだけの施策により、給料の出どころである原資そのものの圧縮に利用される可能性もあるからです。
また、勤労=美徳は、100年人生の再設計そのものを、阻害する要因になってしまう可能性もある。ゆるやかに長くにこやかに働くことは、勤労の概念から逸脱するからです。
<勤労者>は、勤労しない人が嫌いで憎らしいのです。排除したいのです。勤労しない者、食うべからず。日本社会は、そういう無意識を抱えているように思います。
貧しさの自覚を持つことに心理的な障壁がある社会は、貧しい人の社会保障利用を攻撃する社会と裏表。
日本人のこのメンタリティーは、人生100年時代の給料システムと社会保障システムを再設計するうえで、大きな足かせになるのではないか。
人生100年時代の最大のリスクは、日本人の頑迷な精神構造にあるのかもしれません。