この対談について
株式会社ワイキューブの創業・倒産・自己破産を経て「私、社長ではなくなりました」を著した安田佳生と、岐阜県美濃加茂エリアで老舗の葬祭会社を経営し、60歳で経営から退くことを決めている鈴木哲馬。「イケイケどんどん」から卒業した二人が語る、これからの心地よい生き方。
第40回 レーサーから社長への華麗なる(?)転身ストーリー
第40回 レーサーから社長への華麗なる(?)転身ストーリー
ここまで長い間対談をしていますけど、鈴木さんの若い頃のお話を聞いたことがないな、と思いまして(笑)。今日は若かりし頃の鈴木さんについていろいろ教えてください(笑)。
若い頃の話ですか(笑)。そうだなぁ、僕はもともと会社を継ぐつもりはなかったので、好きなことばっかりやっていましたね。
会社は誰が継ぐことになっていたんですか?
すぐ下の弟です。僕は男3兄弟の長男なんですが、次男が「俺が継ぐ」と言っていたし、僕自身も彼のほうが適任だと思っていたので。だから僕は18歳の時に、ホンダのバイク販売店に就職して、そこで働きながらバイクレースに参戦していました。
えっ、鈴木さん、バイクに乗られるんですね! 『汚れた英雄』の世界だ。
そうですね(笑)。そのバイク屋さんがレースチームを持っていたので、最初はモトクロスから始めました。
モトクロスって整地していない場所を走るレースでしたっけ。デコボコした道を砂煙あげながら走るような。
そうそう。そのバイク屋さんはロードレースもやっていたので、20歳前頃にそっちのチームに転向して、そこから23歳まで在籍してました。
へぇ、すごいですね。ロードレースはどんなバイクで走るんですか。
250ccのコンペティションモデルというレース用の車両ですね。最高時速230kmくらい出るんですけど(笑)。国内Aライセンスを取って、1991年には全日本大会を転戦していました。
すごい! かなり本格的にやられていたんですね。ということはもしかして、若い頃は岐阜の山道を攻めていたんでしょうか。
いやいや、公道は走らないですよ(笑)。
あ、暴走族みたいなものではないのか(笑)。
そうだったんですね。じゃあ18歳で就職して、レース引退する23歳頃まで、ずっとバイク屋さんで働きながらレースにも参戦していたんですね。
実は、レーシングチームにはずっと所属していましたが、バイク屋さん自体は20歳で辞めているんです。で、のうひ葬祭に入社しました。「仕事が忙しくなってきたから戻ってきてくれ」と父に言われて。
なるほど。当時はご両親だけでやられていたんですか。
両親と弟(次男)ですね。で、僕が戻った翌年にはもう1人の弟(三男)も戻ってきたので、そこからしばらくは家族5人で会社を切り盛りしていました。
じゃあ鈴木さんは3年間くらい、葬儀屋さんとレーサーの二足のわらじ生活を送っていたんですね。
はい。といってもレースが中心だったので、仕事は二の次。のうひ葬祭に戻る時に「レースはお金がかかるから、月給30万はくれ!」って言ったくらいですから(笑)。
まだ20歳そこそこの若者なのに…(笑)。
笑。でも実際バイクって、メンテナンス代、ガソリン代、移動費、レースのエントリー費っていろいろお金がかかるんですよ。たぶん僕、その3年間で家1軒分くらいのお金を使っているんじゃないかなぁ(笑)。
なんと! そんなにかかるんですね。とはいえですよ、バイクは鈴木さんがやりたいからやっているだけでしょう? お金だけもらって、家業はほとんど手伝わないって、穀潰しじゃないですか(笑)。
あはは、本当にそうですよね(笑)。しかもしょっちゅう怪我もしていましたし。骨折、靭帯切断、あとは脳震盪(のうしんとう)も何回も。
ははぁ、つまり死と背中合わせな環境に身を置かれていたわけですね。そこまで力を入れていたということは、レーサーとしてプロを目指していたんですか?
いや、目指してません(笑)。これで食べていけるとは思っていなかったんで。どこまでいけるのか追求したかっただけです(笑)。
その状態で3年も穀潰し…すごいですね(笑)。
自分でも呆れちゃいます(笑)。
では23歳でレーサーは引退されて、そのあとすぐに社長就任だったんでしょうか。
いやいや、まさか(笑)。3年間まったく仕事をしていなかったわけですから、何もできないですもん(笑)。引退後は弟がやっているのを横で見ながら必死に覚えました。……でもある時ふと思ったんです。「同じことをやっていても、弟には絶対勝てないぞ」と。
同じ土俵で戦っていてはダメだと思ったわけですね。でも逆に、どんな土俵でなら勝てると思ったんですか?
いわゆるマーケティングの分野です。というのも、その頃うちは業績がよくなっていたんですが、父に理由を聞いても「いい仕事をしてるからに決まっているだろう!」と言うだけで(笑)。それを聞いて唖然としちゃったんです。「ちゃんと理由や理屈を分析してないのか!」って。
なるほどなるほど。そこについてはお父さん、そして弟さんも無頓着だったと。
そうなんです。それで「よし、俺がマーケティングをやろう」となったわけです。集客はどうするのかとか、ブランディングはどうやるべきなのかとか。そういう方面で自分の力を発揮していこうと。
なるほど。いわば「現場仕事から経営の仕事にシフトチェンジした」わけですね。ご家族からは何か言われましたか? それこそ「いい仕事」は現場にいてこそできる、って思われていたんじゃないでしょうか。
まさに(笑)。実際、最初のうちは誰にも理解されませんでしたね。「なんで兄貴は現場に行かず、事務所で座ってるだけなんだ」って(笑)。
あいつはまだ穀潰しを続けるのか、って?(笑)。でも実際、そこから何年ほどで社長になられたんですか?
33歳で社長になったので、だいたい10年くらいですかね。
その時は弟さんも「兄貴のほうが経営者に向いている」って認めてくれたわけですね。
認めてくれたんでしょうね。弟に「この分野では兄貴に絶対かなわない」と思ってもらえるように頑張っていたから、嬉しかったですね。
なるほど。「長男だから」という理由だけだったわけじゃなく(笑)、ちゃんと活躍をしたことが評価され社長に選ばれたんですね。
対談している二人
安田 佳生(やすだ よしお)
境目研究家
1965年生まれ、大阪府出身。2011年に40億円の負債を抱えて株式会社ワイキューブを民事再生。自己破産。1年間の放浪生活の後、境目研究家を名乗り社会復帰。安田佳生事務所、株式会社ブランドファーマーズ・インク(BFI)代表。