先日、妻の母親がぼやいておりました。
町中で、ティッシュ配りの若者に、「おばあちゃん、いらないの」と声をかけられたのだそうです。
わたくしがだいたい50の初老で、その親世代ですので、まあ客観的にはどうみても「おばあちゃん」です。
彼女には孫がおらず、環境的な慣れもあるのかもしれませんが、ともあれ、「はじめて人からおばあちゃんって言われた……」と、ショックを受けておりました。
若く見られることに熱心な人でなくとも、およそ生きているかぎり、女性がいくつに見られてもまったく気にしなくなる日が来ないことは、自分のようなデリカシーが低い人間でも理解できるようになりました。
それでも、文化や性別の区別なく、年配者は自己の年齢的な取り扱われ方について自覚していなくては「見苦しい」という雰囲気もまた、いつの時代もあるものです。
たとえば70歳の人がいるとして、誰かが「おじいちゃん」または「おばあちゃん」と呼びかけたとき、
「いや老人呼ばわりするなや」
と反応したとき、失礼に対して当然の答えをした、と見なされるでしょうか。
おそらく「ジジイ(ババア)のくせに」と、容赦ない嘲りをもってみられることでしょう。
一方で、年配者であれば目に見える部分を身ぎれいにしていることが必要です。世間において若者であれば許容される範囲であっても、年配者が小汚くしているということは、イコール社会的身分、価値が低いことを示すからです。
身体的にはごまかしようもなく衰え、美的でなくなりつづけているというのに、取り繕う姿勢を持たなければ生きづらくなるというのは、ちょっと大げさですが、人生の構造的な弱点であるように個人的には思います。
この弱点に対して、アンチエイジングといわれるような発想はある意味無力で、ある意味必要であります。
具体的には、アンチエイジングが意味するのが「老化に対する若作り」ということならば、それは虚しい行為です。
他方、自分がどんなに現実的な老いを受け入れていたとて、見知らぬ人間から急に「おばあちゃん」と呼ばわれる、そんなときは必ずやってきます。
いくつになっても、それには静かに立ち向かわなければならないのです。