世の中にはときどき、後から見ると判断が完全にまちがっていたということがあります。
国の政策であったり、企業の方針であったり、個人の決断であったり。
それがなんであれ、最終的な決定をする人が
「間違ってるな、これ。でもまあいいか……」
と思いながらやっていたということは、基本的にはないと思います。
間違っていた、というのは未来から結果を見て言う話で、その時点では周囲の人もふくめておおむね正しさについて納得していたはずです。
そういうことが起こったとき、正解を知ったところからだと、白いものを黒と認識してしまったような意味で判断そのものが「誤り」であった、といってしまいそうです。
さらに振り返ってみれば、情報不足だとか、コミュニケーションミスだとか、なんらかの気づけなかった「原因」が存在し、そのせいで「誤り」が生み出されてしまったのだ、と。
ですが、過去の人というのはそんなに判断力が劣っているものなのでしょうか。
昔、ある出版社がヨーロッパの絵画を画集にする仕事で、その分野で有名な印刷所の人が出版社のスタッフに
「写真で70、印刷で70」
と語ったことがあったそうです。
実際の絵画の色、質感などをどれだけがんばって落としこもうとしても、写真にした時点で良くて70%、それを印刷した時点でさらに70%の再現度しかつくれない。結果、画集で表現できる要素はいいところ49%で実物の半分に満たない、というたとえでした。
同じような構造は、いろいろな判断にも共通するのではないかと、個人的には思います。
なにかを決めようとするとき、すべてがうまくいくベストがあれば最初から問題ではないわけで、もっともベターと考えられる選択を行う。そこにはどうしても取り落とす要素があり、70%でとりあえずの正解とみなされる。
ただし、それが上から下へ伝わるとき、右から左に波及するときにも同じように判断が必要となり、7割の正解率で伝達される。
それが3層構造にもなれば、「正しさ」は35%まで目減りしてしまうのです。
トップで全体最適的な正解を選んだつもりが末端でガタガタになる判断の失敗は、「原因」があるのではなく、70%が悪いのでもなく、70%で正答とする問題設定の対象が過度に単純化されているがゆえ、なのです。

















