【コラムvol.57】
100年タイムスリップ。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.57  執筆/伊藤英紀


100年タイムスリップ。

けっこうあるんです。100年企業との出会い。

そんなとき、「へえ、100年つづいている会社かあ」と軽くとらえて、クライアントが用意してくれた資料にきっちり目をとおそうが、それだけではぜんぜん仕事にならない。

とくに中小企業は資料がかなり歯抜けであるし、歩みもほとんどまとまっていないからだ。取材したからといって、口伝えの記憶自体があいまいで薄く、ほぼ風化している。

散漫な伝承からは、時代背景は見えてこない。つまり、理解すべきことがまるで理解できないのです。

だから、こちらで時代背景を調べながら散漫なエピソードとエピソードをつなげつつ、想像力と検証を駆使して全体を組み立てなければならない。ちょっとしたタイムスリップですね。

そこが鈍いと、ブランディングとかインナーコミュニケーションとか、歴史をまとめる仕事をさせてもらうときに、底の浅い仕事になっちゃうこともある。という話を今回はします。

昨年末、地方の街で100年超、歯科医院を営む医療法人と出会いました。大正時代初頭に歯医者になるということは、想像以上にすごいことだったろうなと直感しました。

で、いろいろ調べてみました。

日本歯科医史学会によれば、1912年(大正元年)の歯科医師数はわずか1531人。当時の日本の人口が5000万人超であるから、国民約3万2700人に対して、歯科医師1人、という割合になる。

では、現在はどうか。厚生労働省によると、2016年(平成28年)の歯科医師数は10万4533人。国民約1214人に対して、歯科医師1人、という割合だ。

大正元年の歯科医師の割合は、現在の約27分の1ということ。

今、街の27のデンタルクリニックのうち、26が廃業したらどれほど困るか。そう想像すれば、当時の歯科医師がどれだけ希少だったかがわかる。

106年と半年ほど前、大正時代を迎えたわけですが、さて、大正とはどんな時代だったのでしょうか。歯科医師の開業時の時代背景を少し説明します。

大正時代は、1912年7月30日から、1926年12月25日まで。世界史としては、第一次世界大戦が1914年(大正3年)7月28日に勃発します。

明治時代は文明開化の時代と言われますが、地方の実態といえば、大正に入っても日本はまだまだ貧しく土着的で、近代化は緒に就いたばかりでした。

それは、子どもたちの就学状況を調べればわかります。文部科学省によると、1915年(大正4年)、12歳で入学する中等教育機関への進学率は、たったの女児5.0%、男児10.8%です。

現在の小学校卒が最終学歴にあたる子どもは、女児95%、男児89.2%もいた計算になります(小学校にすら通えない子もいたでしょうね)。

当時、日本人の多くは、12歳になると労働力になったようです。

総務省統計局によると、1920年(大正9年) の15歳以上の就業者人口は 約2761万人。うち第一次産業従事者が1467万人となっています。つまり、約53%もの民衆は土や海と共に生きていたのです。

厚生労働省のグラフによると、大正元年の水道普及率は10%を少し超えたあたり。水道でこれですから、電気やガスは当然なく、都市部以外の庶民の暮らしぶりは前近代的だったと推測できます。

農家の長子以外は農村過剰人口として地域外の仕事へと押し出されていく。過酷な紡績工場を舞台にした「女工哀史」は大正時代の刊行ですし、「ああ野麦峠」も大正にかけてのノンフィクションです。

冒頭の話にもどりますが、その100年以上つづく歯科医院が開業したのは、そんな時代だったのです。庶民の暮らしぶりは貧しく前近代的ですから、口腔の衛生状況も相当ひどかったでしょうね。

明治から大正にかけ、創業者は、日本を先駆ける一人として西欧の歯科医術を学びました。この時代は、歯科医でない者が治療にあたることも普通だったようです。

土着の地方町村で、創業者はフロンティアとして歯の治療をしただけか。いや、大正初頭の時代背景を踏まえれば、その理解は浅すぎると思いました。

近代西欧の「衛生思想」と「歯科医学」というサイエンスを導入し定着しようとした、「啓蒙家」としてとらえるべきではないか。そう考えると2代目3代目4代目の話もつながっていきました。

大正初頭に地方に根差す歯科医は、今の歯科医とはかなり立ち位置が違ったと考えられます。

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