「すべての人は、すごい可能性を秘めている」と信じる大野と、「多くの人は目的などなくただ存在しているだけ」と断ずる安田。人間の本質とは何か。人は何のために生きているのか。300文字限定の交換日記による言論バトル。
56通目/大野からの返信
「どんなに無様でも」
いくつかの観点がありますが、あえて言えば、音楽家がステージに上がって演奏で魅了する方法、つまり練習すること。そんな表現になります。
もっと露骨に言えば、座して死すより、どんなに無様でも挑戦する。ぶちのめされる。どんなに無様でも立ち上がる。そして、どんなに無様でも挑戦する。ぶちのめされる。しかし、どんなに無様でも起き上がる。…それはやがて生き様となる。その過程で思考され、出会い、感じ、信じ、確信し、見えてきて、イメージされ、言語化されていくのだと思います。詳細は省きますが、脳の構造上、例えば、意欲があるから動く、ではなく、動くから意欲がわくという順番らしいですし。安田さんはどうお考えですか?
前回55通目/安田「人は可能性を認識できない」
人は目に見えるものでないと、その存在を捉えることができません。言葉にできるものでないと、その存在を定義することができません。だからどうしても「見えるもの・言葉にできるもの」に縛られてしまう。これは仕方のないことだと思います。問題はその「縛られている自分」に気がつくかどうか。今の自分には見えないもの。言葉にできないもの。そこにこそ無限の可能性がある。それは事実だと思います。ただしその可能性を引き出すのは簡単ではありません。なぜなら人は見えるものしか信じないし、言葉によってしか思考することが出来ないから。この縛りを振りほどく方法があるのなら、ぜひ教えていただきたいです。
ー安田佳生より
前々回54通目/大野「可能性をとらえる目」
思いの他、時間が…(笑)
僕たちは、可能性をとらえる目が何かによって曇っている。そうさせているものは、比較や対立、評価や基準、所謂物差しです。そして、曇った目で眺めている現実では、人間は想像の及ぶ範囲でしか恵みを受け取ることができない。それを規定しているのが言葉、どう表現するかです。自分自身と状況を今とは違う別の言葉で言い換える手段をどう開発するかが鍵です。1926年、アインシュタインはハイゼンベルクに、目に見える事実だけで理論を組み立てる意味がない。現実は正反対だ。理論によって目に見えるものが決まるのだと語っている。僕は、言葉が意味の範囲を創り、探求すべき新しい可能性を開くと信じている。
ー大野より
交換日記をする二人
●火曜日
安田佳生(やすだ よしお)
1965年生まれ、大阪府出身。
2011年に40億円の負債を抱えて株式会社ワイキューブを民事再生。自己破産。1年間の放浪生活の後、境目研究家を名乗り社会復帰。
●金曜日
大野栄一(おおの えいいち)
株式会社一番大切なこと 代表取締役
https://ichibantaisetsunakoto.com/
https://www.sugoikaigi.jp/coach/eiichiono/