年間予算ということなのだろうか。それとも、数ヶ月から1年程度かけて行う新卒採用の話か。いや、それにしたって多すぎる。かつて新卒採用と言えば1000万円以上の受注も当たり前だったと営業一部の古株マネージャーに聞いたことがあるが、リーマンショック以降、業界全体で価格破壊が起こり、今では中途採用とほとんど変わらない金額で契約が結ばれることも多い。
数週間で契約満了となる中途媒体に比べ、長ければ1年以上に渡って掲載が続く新卒媒体は、フォローする側にかかる負担もそれだけ大きくなる。中途採用と同じ金額では、とうていペイできないのだ。だから最近では、新卒案件を嫌う代理店も多い。何を隠そうAAも、内々では「新卒を避け、できるだけ中途案件を」という話は当たり前にされているのだ。
ということは、今回も中途? だが、そうであればなおさら驚くべき金額だ。
全国に支店を持つ飲食店や量販店などならまだわかる。10名以上の社員に加え、数百名のアルバイトスタッフを確保するというような場合なら、1000万円以上の金は普通にかかる。だが、オンライン通販がメインで、実店舗を持っていないBANDにおいて、それほど多くの人間が必要だとも思えない。
……だが、例によって今回の案件内容をまったく聞かされていない俺には、何の判断もできなかった。ハッキリしているのは、仮にその金額が「1回分」のものなのだとしたら、この契約がまとまればとんでもない利益がAAに入ってくるということだ。担当営業にしてみれば、この1件だけでクオーター目標(3ヶ月間の目標)を達成してもおかしくない金額なのだ。
高橋は書類に落としていた視線を、ゆっくりと社長に戻した。その目に戸惑いの色はない。
「随分な金額ですが……いったいどれほど優秀な人材をお求めなんでしょう」
「……別にスーパーマンを求めてるわけじゃない」
「じゃあ、なぜ」
社長はじっと高橋を見つめ、試すような目で言った。
「これはまだオープンにはできないんだが、実は近々、当社は新規事業を立ち上げる予定なんだ」
「新規事業? POの事業は順調だと聞いていますが」
「そうさ。あらゆる意味で順調だ。だが、所詮はニッチビジネスだからね。パイが少ないんだよ。業界内でどれだけ勝っていたって、売上自体はウチの事業よりずっと小さい」
槙原社長は「ウチ」というとき、親指で自分を指すような仕草をした。ウチというのは高木生命のことだろうか。確かに、モバイルバッテリーよりは保険の方が、カスタマーの幅は広いだろう。
「……ということは、新規事業は別の分野で?」
「ああ」
その時、高橋の頬にかすかな笑みが浮かんだように見えた。そして、先ほど社長が高橋に向けた、挑むような目で社長を見据えて、言った。
「金融ですね」
槙原社長の顔に、驚きが浮かんだ。だがそれはすぐに消え、今まで以上の深い笑みが浮かぶ。
「美人なだけじゃなく、頭もいいんだな。ますます気に入ったよ」
二人の間で交わされる会話に、俺はついていけない。
金融? なんでモバイルバッテリー屋が金融事業などを始めるのか。保健事業と言われればまだ納得できたかもしれない。だが、それにしたって、わからない。
だが、高橋には事情がわかっているらしかった。
「マネジメントラインは高木生命から。その手足が必要なんですね」
「その通りだ。本当に話が早い」
槙原社長はそして、隣にいる若者をちらりと見る。
「今回のプロジェクトに伴い、何名かできる営業マネージャーをウチから呼んでる。だが、兵隊が足りない。彼のような、な」
「なるほど」
「彼は正木という、入社1年目の新人営業マンだ。どんな人材を求めているのか。そう聞かれたら、彼みたいな人間だと答えるよ」
彼は正木、という名らしい。俺はあらためて正木を見た。スポーツマンタイプというか、日焼けした肌に短い髪、爽やかな印象で、女にもモテそうだ。
「別に我々は優秀な人間を求めているわけじゃない。言われたことを言われた通りにキチンとできる人間なら、ちゃんと結果を出させる。この正木はね、入社当時はダメダメな奴だったんだ。だけど、ウチに来てウチの研修を受けてさ、変わったんだよ。な?」
槙原社長が言うと、正木はまた驚くような大声で「はい!」と返事する。
「ほんとダメな奴だったもんなあ?」
「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」
ハキハキと答える正木を社長は満足げに見つめ、それから高橋に向き直る。
「ということで、仕事については彼に話を聞いてくれ。新規プロジェクトだから全部話せるわけじゃないが、営業なんてやることはだいたい一緒だ」
「……わかりました。ありがとうございます」
高橋はそう言って、「よろしくお願いします」と正木に頭を下げる。
「お前、俺の悪口は言うなよ?」
槙原社長が首を傾げながら言うと、正木が「はは、そんな、言わないですよ!」と笑う。
その風景を見ながら、俺はよくわからない感情に襲われつつあった。
槙原社長は確かにエロオヤジには違いないが、なんというか、面倒見のいい先輩、という風にも見えなくはない。高校のサッカー部にもこういう先輩はいた。乱暴だし理不尽なことも多いが、できない後輩の練習には何時間でもつきあってやるような先輩だ。個人的にはあまり好きなタイプではないが、正木の笑顔を見ている限り、関係性は悪くなさそうだ。
「じゃ、高橋さん。あとはよろしく。今日はお会いできてよかった」
槙原社長が腰を浮かせながら言い、「採用成功の折は、ぜひどこかで食事でも」と付け加える。
「そうですね、楽しみにしています」
そう答える高橋の顔には、余裕の笑顔があった。だが、社長が頷いて視線を外した途端、冷たい無表情に変わった。
(SCENE:040につづく)
児玉 達郎|Tatsuro Kodama
ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。
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