HR 第4話「正しいこと、の連鎖」
待ち合わせは、六本木の某オフィスビル1階にあるスターバックスで。
東京で暮らすようになったのは大学からで、既に7年ほどが経っているが、それまでは東海地方の片田舎で育った。渋谷とか原宿とかいう名はテレビや雑誌で見聞きするものだったから、上京して当たり前にそれらの街で過ごすようになってしばらくは得意な気持ちだった。六本木にも同じような憧れはあったが、足を運ぶ機会は多くなかった。だから社会人になった自分が今、六本木のスタバで人と待ち合わせしていることに、悪くない満足感を覚える。
店はあまり広くはないが、壁はなく、ソファやスツールがゆったりと配置されているせいで圧迫感はない。当然のことのように、オシャレだ。席は7割程度の埋まり具合で、半分以上が外国人だった。ひと目で高級品だと分かるスーツの人もいれば、逆にスケーターかラッパーかと思うようなルーズな服装の人もいる。MacBookを叩いたり文庫本を読んだり、ただ仲間と話していたりするだけなのに、妙にサマになる。
日本語堪能な外国人美人スタッフからアイスコーヒーを受け取ると、俺はビルのロビーが見える位置に座った。壁がないから、店の中からでもビルエントランスの正面にある総合受付が確認できるのだ。ビルのラウンジとしての機能も兼ねているのだろう。ロビー中央にあるカウンターの中には、もし合コンにやって来たら何かのワナだと思うほどキレイな受付嬢が2人。そしてその脇には、このビルに入った企業のロゴマークが並んだ案内板が立っている。
アイスコーヒーを口に運びながら、俺はその案内板を見つめた。並んだロゴマークはどれも堂々としている。実際、そうそうたる顔ぶれだ。誰でも知っている総合商社、広告代理店のクリエイティブ支店、大手ディベロッパー、世界的な巨大金融企業、高給で有名な外資系コンサルティングファーム。そのなかの一つ、雷のような形で「B」という文字をかたどったロゴを見つけ、俺は思わずつばを飲みこんだ。
わざとらしく視線を逸らし、スマホを取り出すと、ブラウザを立ち上げる。すぐに、さっきまで見ていたWebページが表示される。そこには案内板と同じロゴマークが掲げられたオフィス写真が写っていた。なぜかジャングル風の奇妙な空間に、統一感のないテーブルや椅子が雑然と並べられている。GoogleとかFacebookとか、ああいう企業をイメージしているのだろう。いかにも今風の、自由で先進的な雰囲気。
思わず頬が緩んだ。自分が今からここに行くのだと思うと笑えてくる。まさか「BAND」もウチの顧客だったとはーー
「BAND」と言えば、モバイルバッテリーの分野で大成功を収めたアメリカ発のベンチャー企業だ。数年前「PO」(ピーオー)というオリジナルブランドを立ち上げ、イケてるデザインのモバイルバッテリーを発売した。POのバッテリーは容量や機能こそ大したことはなかったが、とにかくオシャレだった。結果クリエイター層を中心に話題になり、要するに「バズった」。
俺はカバンの中から、数週間前に買ったばかりのPO製モバイルバッテリーを取り出し、苦笑いする。「御社の製品、使ってるんです」と言ったらBANDの担当者はなんと言うだろうか。そういったおべっかには辟易しているのかもしれない。何しろ、BAND社だ。
今日行くのはBANDの日本法人「株式会社BAND JAPAN」だが、その美的センスや先進性は世界共通のはずだ。そう思いながら俺は、POのモバイルバッテリーをカバンの中に戻した。
その時――
なんとなく気配を感じて、顔を上げた。一人の女がビルエントランスを抜け、カッカッカッカッとヒールを鳴らしながらロビー中央まで進み出てきた。その姿を見て、思わず息を呑む。
その女は立ち止まり、何かを探すように左右を見回している。驚くべき美人だった。受付嬢とは存在感が違う。俺はあの人の身長がそれほど高くないことを知っている。たぶん160センチくらいだろう。だが、スタイルが恐ろしくいいせいで大きく見える。
その女――HR特別室の高橋はそして、俺に気付いた。
◆
「あの……今日って、どういうアポなんですか」
AA本社の入っているビルと同じような広いエレベーター。高橋と並ぶと、かいだことのないスパイシーな香水が鼻に届く。あの鬼頭部長の先輩、ということは俺よりも二回り以上年上のはずだが、そんな風にはまるで見えない。
「どういうアポって、あんたが知る必要ある?」
……だが、威圧感は確かに、鬼頭部長以上だ。
今朝、HR特別室に出勤すると、高橋のアポに同行するようにと宇田川室長に言われた。
もちろん俺はその場で内容を問うたのだが、あのふわふわしたおっさんが教えてくれたのは、クライアント名と待ち合わせ場所、時間だけだった。相変わらず、状況説明は一切ない。
まあ、だが、その時の俺は、そんな室長の対応に対して何の不満も覚えなかった。保科と行ったクーティーズ然り、室長と行った中澤工業然り、印象的ではあるが所詮は小さな個人店、そして町工場だ。だが今回アポ先は、今をときめくBAND社だ。要するに俺は、舞い上がってしまったのだ。
「きょ……今日のクライアント、個人的にも好きなんですよ」
興奮が蘇ってきて、俺は思わず言った。すると、高橋はその小顔をこちらに向けて、はあ? という顔をする。
「なんで?」
「いやだって、すごい会社じゃないですか。自分、商品も使ってるし」
そう言って鞄の中からPOのモバイルバッテリーをチラリと見せた。高橋はそれを冷たい目で捉えると、ため息混じりに首を振る。
「残念だけど、あんまり期待しないほうがいいわよ」
「え? どういうことですか」
エレベーターの中は適度に混んでいる。静か過ぎる空間より、多少のざわつきの中の方が人間は話しやすいのだと東京に出てから知った。エレベーターの外に面した方の壁はガラス張りで、眼下には芝公園、東京タワーが見えている。
高橋は目を細め、鼻で笑った。
「ま、百聞は一見にしかず。せいぜいショックを受けないようにね、僕ちゃん」
◆
エレベーターの扉が開くと、俺と高橋以外にも5〜6人が箱を降りた。
彼らを見て意外に思った。その全員が、真面目そうなスーツ姿の男たちだったからだ。
クリエイター御用達の商品を扱うBANDだ。ロン毛にボロボロのスニーカーという保科ほどではないにしろ、もう少しラフというか、今風の雰囲気の人間ばかりだと思っていたのだ。
だが、まあ、彼らはBANDの社員ではなく、俺たち同様に商談にやってきた業者なのかもしれない。先進的な人気企業に、それがなぜ人気なのかもわからない古いタイプの企業が群がる。そんなのはよくある話なのだろう。
箱を出ると、そこはエレベーターホールと呼ぶにはあまりに広い空間だった。ダサいリーマン達に対する興味は完全に失われ、俺はその景色に見惚れた。まるで空港のように、壁一面がガラス張りになっており、その高さはどうみてもワンフロア分ではない。恐らく、2フロア、いや、3フロア分を使っているのだろう。
「……すげえ」
思わず感嘆の声を漏らした俺に構わず、高橋はカツカツと大理石風のフロアを歩いていってしまう。
「あっ、ちょっと」
慌ててその後を追うと、正面に例の「B」を形どったロゴが掲げられているのが見えた。さっきエレベーターを一緒に降りた、ダサいサラリーマン達が、一足先にそのロゴの奥へと入っていくのが見える。
高橋は慣れた手付きで、受付に置かれたiPad Proほどの大きさのタブレットを操作する。画面に「すぐにスタッフが参ります」という文字が表示され、それから一分ほどして、脇に伸びる廊下の奥から、いかにもBANDらしい服装の男が顔を出した。
「ああ、どうも」
背が高く痩せていて、黒縁メガネにパーマのかかった髪、シンプルな白Tシャツに紺色のカーディガン。下はスラックスではなくジーンズ地の白いパンツで、足元は裸足にローファーだ。そして小脇にはWindowsのSurfaceを抱えている。その姿を見て俺はホッとする。そうそう。やっぱりこうでなきゃ。使っているのがMacBookじゃないのが意外と言えば意外だが、まあそんなことはいい。世界的にオシャレで通るBANDでは、こういうクリエイターっぽい雰囲気の社員が働いていなければならないのだ。
「じゃあ、ご案内いたしますので」
その男は挨拶も早々に、俺たちを廊下の奥へと促した。角を曲がり、そこに先ほどスマホで見た通りの風景が広がったとき、俺は嬉しさのあまり声を上げそうになった。
全体的にはやはりジャングルをイメージしているのだろう。壁には一面、本物と見紛う植物のオブジェが設置され、ところどころに人間の背丈ほどもある動物の人形が置かれている。そして、種類がバラバラの椅子とテーブル。そこにはいま俺たちを案内している男とよく似た服装の人間が、ノートパソコンで作業をしたり、打ち合わせのようなことをしている。
一昔前の企業人からすれば、遊園地のようなふざけた空間でダラダラ過ごす若者に見えるかもしれない。だが、FacebookにしろGoogleにしろ、世界的な企業ではこういう働き方が当たり前になりつつあるのだ。
……やべえ、かっけえ。
素直にそう感じている自分に気づき、苦笑いを浮かべる。ふと見れば、相変わらずモデルのような派手な歩き方をする高橋の耳元で、俺たちを案内する痩せた男が何かを話している。
男が口元を隠しているので俺には何を言っているのかはわからない。だが、男がどこか焦っているというか、怯えた雰囲気であることに俺は気付いた。
……なんだ?
気のせいかもしれない。もともと顔色の悪い、不健康そうな男ではあった。でもそれがまた、一流企業のクリエイターっぽい雰囲気を出しているとも言えた。だが、先程の表情は、もう少し感情に根ざしたもののように思える。一方の高橋は、男の言葉に頷いたりして見せてはいるものの、クライアントに対するものとは思えない冷たい表情のままだ。
ジャングルのようなロビーを通り抜け、突き当りを左折する。するとそこに、それまでとは一転、茶色というかワイン色というかシックな色合い一色で塗られた壁があった。ごちゃごちゃした植物も動物のオブジェもない。
その茶色い壁は何か厳重な雰囲気の自動ドアがあった。ガラスではないので向こう側は見えない。男はその扉の前まで行くと立ち止まって振り返り、「少しお待ち下さい」と言ってドアの脇に進み出る。そこには腰ほどの高さの台があり、その上に、タブレットではなくなぜか電話機が置かれてあった。痩せた男はこちらをチラチラと振り返りながら受話器を取り上げ、やがて口元を隠しながら話し始める。
……やっぱり。
やはり気のせいではない。男は明らかに怯えていた。電話機に向かって何度も頭を下げ、ときどき震えるようにビクリと肩を揺らす。
やがて受話器を置いた男はこちらを振り返り、それから高橋のそばまで近づいてきて、言った。今度は俺にも聞こえた。
「何度も言いますが、これは本当に異例のことなんです。……私の立場もありますから、くれぐれも失礼のないようにお願いします」
嫌な予感がした。
◆
自動ドアを抜けると、その先に、さらにもう一つ自動ドアがあった。
なんだ? と思ううち背後で音がし、今入ってきた自動ドアが閉まるのが見えた。俺は妙な圧迫感を覚え始めた。まるで閉じ込められたような気持ちになってくる。
それは、目の前に現れたもう一つの自動ドアの脇にあったデジタルサイネージのせいでもある。そこには赤い字で、「未許可の方は立ち入りをご遠慮ください」というメッセージが表示されていたのだ。案内の男は、またそこにも置かれていた電話機に小走りに駆け寄り、何かを話している。
関係者によって案内されているわけだから、俺たちは「未許可の方」のはずがない。だが、だからといって、「お客様をお迎えする」という雰囲気でもないのだ。
何か、変だ。
そして俺は、ここに入る前に高橋に言われた言葉を思い出した。せいぜいショックを受けないようにね、僕ちゃん。
「あの……」
思わず高橋に耳打ちした。二回りも歳上とは思えない顔立ちの高橋が俺の方を向き、ドキリとする。
「なに」
「いや……あの、なにをあんなにビビってるんです、あの人」
高橋は、電話に向かってまたペコペコと頭を下げている男の背中を見やり、妙なことを言った。
「あなた、学生時代は運動部?」
「え? ……ええ、高校でサッカーをしてましたけど」
「厳しかった?」
「え? うーん、まあ、それなりには」
答えた俺に、高橋が初めて笑顔らしきものを見せた。そして微かに首をかしげるようにして、言った。
「そう。なら、話が早いわ」
どういう意味なのか聞こうとしたとき、男が受話器を置き、自動ドアが開いた。
そこに広がった風景に、俺は目を疑った。
さっきまでいたロビーとは、まるで違った雰囲気だったからだ。
壁は地味な灰色、そして床は白っぽいリノリウム。それぞれの部屋の扉の脇に、「会議室」とか「営業部」とかと書かれた白いプレートが設置されている。
ジャングルどころではない、まるで古い警察署のような……それは遊び心の一切が排除された、古臭い「事務所」だったのだ。
「……これは」
思わずつぶやいた俺を、高橋が悪そうな笑顔を浮かべつつ見る。
「じゃあ、こちらでお待ち下さい。用意ができたら、お呼びしますので」
男はすぐそばにあった待合スペースを示し、俺たちがそれに従うと、うつむきがちにさらに奥へと進んでいった。まるで昭和時代にタイムスリップしたようなこの空間では、彼のような今風のクリエイターっぽい服装はひどく浮いて見える。
「……どういうことですか、これ」
高橋と並んで座りながら、聞いた。
「なにが」
「全然違うじゃないですか、さっきまでの場所と」
「……本当に何も知らないのね」
高橋はそう言って、苛立った様子で首を振る。
「なんですか……それ」
「高木生命」
突然高橋が言った。
高木生命と言えば、大手4社には入らないが、それなりに名前は知られた、老舗の保険会社だ。
……だが、その高木生命が何だというのか。
「BAND JAPANの実質的なオーナー企業よ」
「はい?」
「厳密に言えば、高木生命の子会社のひとつであるTNBインシュアランスが、BtoBのカタログ通販で実績のあったストファルと共同出資して立ち上げたのがBAND JAPAN。要するに、本国のBAND社から日本国内の販売権を買ったのね。もちろん投資比率はストファルより高木生命の方が圧倒的に高い。まあ、簡単に言えば、高木生命が新たに目をつけた投資先がBANDってことよ」
いきなり固有名詞がドカドカと出てきて、理解が追いつかない。
「……ええと、それは、つまり……どういう」
「高木生命と言えば、このコンプライアンス時代に、新規顧客獲得のためには土下座も恫喝も、下手したら暴力だって辞さない、なんて噂されるゴリゴリの営業会社よ。イメージの悪さも手伝って本業の保険事業があまりうまくいっていないものだから、ストファルが持ってたシステムとネットワークを金で囲った上で、BANDに日本国内での販売代理店契約を迫ったんでしょうね」
「……あの、ちょっとよくわからないんですけど……」
俺が素直に言うと高橋は面倒臭そうに続ける。
「僕ちゃんにもわかるように言うなら……そうね、頭はあまりよくないけど喧嘩がめっぽう強い高木生命くんが、秀才だけど気弱なストファルくんを脅して自分の代わりにテストを受けさせて、その100点の答案用紙を持って好きな女の子BANDちゃんにアタックした、ってとこかしら」
妙な例えだが……わかりやすい。
つまりBAND JAPANというのは、BANDが自ら立ち上げた日本法人なのではなく、高木生命を中心とした日本企業がその権利を買っただけの、言わばフランチャイズ企業的なものなのか。
「ちなみに、高木生命は社長から幹部までのほとんどが某体育会系大学出身者で占められてる。要するに、先輩後輩の関係が社会人になっても続いているのよ。これがポイントの1つ目。そして、BAND JAPANの金を出しているのは高木生命。つまり最も強い発言権を持つオーナーはBANDでもストファルでもない。これがポイントの2つ目。さらに、いま私たちがいるこのオフィスの様子。高木生命の社員というのは、流行の細身スーツは禁止。パッと見で会社がわかるくらい古臭い格好をしてるわ。これがポイントの3つ目。さあ、この3点から導き出される答えは何?」
俺は思わず視線を落とした。考える。
頭の中で様々なキーワードが回転する。高橋は何を言わんとしているのか。
……だが、答えはもう出ている気がした。出ていると言うか、既に見えている。
「……ここはBANDじゃなく、高木生命」
呟くように言うと、高橋が「いい子ね」と目を細めて笑った。
「まさに羊の皮をかぶったなんとやら、よ。BAND JAPANの役員は高木生命からの出向者ばかり。それもガチガチに学閥で固められた、ね。さっきまで通ってきたラウンジこそBAND風だけど、ひとつ中に入れば、そこはもう完全に高木生命なのよ。上司が言うなら腹も切らねばならないくらいに上下関係のきつい、旧態然とした、昭和的な企業」
俺はそして、先程通ってきたあの茶色い壁、そして、二重に作られた自動ドアのことを思い出す。そして、デジタルサイネージに表示された「未許可の方は立ち入りをご遠慮ください」というメッセージ。
「異例のことって……じゃあ普通なら、ここまで入ってこれないってことですか?」
あそこで男が言っていた言葉を思い出して言うと、高橋はさらに笑みを深くした。
「思ったよりバカじゃないのね、僕ちゃん。その通り、BANDとしての商談はすべて、さっき通ってきたふざけたジャングルの中でするのよ。それは、まとまった資本は欲しいがブランドイメージも重視したいBAND社と、BAND社の商品で金は稼ぎたいが自分たちの哲学や伝統を崩す気はない高木生命との、ある意味でウィンウィンの取り決めだった」
なるほど、と思う。
そういえば、さっき一緒にエレベーターから降りた、どう見てもBANDっぽくない真面目な雰囲気の男たち。彼らは高木生命からの出向者だったのだろうか。
「でも……じゃあどうして、僕らはここに通されてるんです?」
当然の疑問を口にすると、高橋はうんざりしたように首を振った。
「さあね。でも、さっきの彼があれだけ怯えてた理由はわかるわ」
「なんですか」
「今日はなんと、社長様が直々にお相手してくれるそうよ」
「社長!? BAND JAPANのですか」
「そう。BAND JAPANの社長で、でも実際の本籍は高木生命に置いたままの、おそらく数年で本社に戻って幹部にでもなる人よ。BAND社のブランドイメージを無視してこんなオフィスを作っちゃうよな社長だもの、高木生命の伝統を誰よりも重視する面倒な相手だってことは間違いないわね。……さっきの彼にとっちゃ、誰よりも恐ろしい人なんじゃないかしら」
その時、奥の方から誰かが小走りに駆けてくるのがわかった。顔を上げると、まさにいま話題にしていたあの男が、青い顔をして近づいてくるところだった。
「どうぞ、準備ができましたので、社長室にご案内します」
◆
「失礼します」
怯えからか、男の声は掠れていた。社長室、と仰々しい明朝体で書かれたプレートの下、他とは明らかに違う、重厚な作りの扉が開いていく。
部屋の中の様子が徐々に明らかになっていく。男ほどではないが、俺も当然、緊張を感じていた。何しろ、BAND JAPANの社長室なのだ。もっとも、当初イメージしていた状況とはひどく違っているわけだが。
最初に気付いたのは、敷かれた赤黒い絨毯だ。毛足が長く、ひと目で高級品と分かる。そして、壁に沿って設えられた棚。全面ガラス張りで、何かのトロフィーや楯、高そうなオブジェが並ぶ。その横にはゆったりしたベージュ色のソファセットとローテーブル。そこには一人の若者が座っていた。まさか彼が社長? ソファのリラックス感と明らかにアンマッチな、背筋をピンと伸ばした座り方。
やがて扉は全開になり、俺たちの正面奥、壁際に置かれた大きな執務机の向こうに、俺は一人の男の姿を認めた。
男は余裕のある笑みを浮かべ、こちらを見ていた。間違いない、社長はこっちだ。浅黒い肌、きっちりとオールバックにされたシルバーの髪、派手なネクタイ。五十代半ばくらいだろうか。机の上で組んだ手にはゴテゴテと宝石のようなものがついた腕時計をはめている。男はゆっくりと立ち上がり、スーツのボタンを丁寧に止めながらこちらに進み出た。
「社長、失礼いたします。こちら、アドテックアドヴァンスの――」
「ああ、わかってる」
やはりこの男が社長のようだ。身長が高く、引き締まった体つきをしている。着ているスーツもかなり高そうだ。だが、なんというか、一般的なサラリーマンとはセンスが違う。全体的に妙にゆったりしたシルエットで、ビジネスマンというより、それなりの地位にあるヤクザのように見える。
「はじめまして、槇原です」
男はそう言って、高橋に名刺を差し出した。真っ白の紙に槇原忠生という名前だけが書かれた、政治家のような名刺。
「高橋です。よろしくお願いたします」
高橋も自分の名刺を差し出す。槇原はそれを受け取りつつ、名刺ではなく高橋の顔に視線を留めたまま、「よろしく」と目を細めた。まるで、値踏みするような、いやらしい目つきだった。
俺も名刺を……と慌てて胸元を探ったが、槇原は気持ちいいほど躊躇なく俺を無視すると、「さあ、こちらにどうぞ」と高橋の肩に軽く触れるようにして、ソファの方に促した。
「さあ、座って」
槙原社長はそう言って、さっきから微動だにせず座っている若者の隣に腰を下ろした。彼は一体何なのだろうか。年齢は俺と同じくらいだろう。重要なポジションに就いているような雰囲気でもない。
槇原社長の向かい側に高橋が座り、俺はその隣だ。腰を下ろす瞬間、槙原社長が俺をチラリと見た。その顔には笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。俺は居心地の悪さに思わず視線を落とした。
「それにしても、驚いたな。噂以上だ」
槙原社長が背もたれにゆっくりともたれながら言って、隣の若者に「なあ?」と同意を求める。若者はピクリと肩を震わせると、満面の笑みを浮かべ、こちらが驚くような大声で言った。
「はい、大変おキレイで、自分も驚きました!」
……なんなのだこの男は。だが、それはそれとして、俺は直感的に、なぜ俺たちがこんな奥にまで招かれたのか理解しつつあった。普通の商談はあのジャングルみたいなロビーでやるのだと高橋が言っていた。それなのに俺たちは、あの厳重な二重扉を抜けて、しかも「社長室」にまで通された。なぜか。
……このエロオヤジが。
社長は明らかに、高橋に興味を持っていた。詳しい経緯はわからないが、槇原社長は次の担当営業がすごい美人だという情報を得たのだろう。それで、自分のテリトリーに招き入れることにした。
確かに高橋は、男たちの目を釘付けにするような美人だ。社長くらいの年代の男にとっては特に、たまらないのかもしれない。だが、それはあくまで「本音」の話だ。ビジネスの場、それも初対面の場で、女性の容姿について話題にするなんて。場合によっては「セクハラ」と捉えられてもおかしくない状況ではないか。
「私もこれまでたくさんの営業に会ってきたが、あなたのことは忘れないだろうな」
まさかこの場で口説き始める気じゃねえだろうな。社長やこの部屋の雰囲気に飲まれていた俺も、さすがに怒りを感じる。だが、当の高橋は特に気にする様子もない。「光栄ですわ」と言いつつ、カバンの中から資料や書類を取り出し始める。慣れているのだろう。
実際のところ広告業界には女性の営業も多い。仕事の中で客からこの手の扱いを受けることもないとは言えない。いや、成績のよい女性営業たちは、むしろ自分の「女性性」をうまく使って契約を取っている面もあるのだろう。特に個人店や中小企業などが相手の営業二部や営業三部では、商談後の居酒屋につきあうことも珍しくないと聞いたことがある。いわゆる「枕」まではないにしろ、多少の「隙」を見せることは、重要な営業テクニックのひとつなのだと、他でもない女性営業自身が言っているのを聞いたこともある。
「お仕事の話をさせていただいても?」
高橋が言うと、社長は笑った。
「おや、つれないね。……だが、そうしよう。美人の機嫌を損ねたくはないからな。おい柳原、例のものを持ってこい」
社長はそう言って、俺たちをここまで案内してきた痩せた男を呼び寄せる。柳原と言うらしい。壁際で所在なく立ち尽くしていた柳原が慌ててソファに駆け寄り、クリアファイルに入った書類を一枚取り出し、社長に手渡す。槇原社長はそれを一瞥すると、テーブルの上に置き、ゆっくりと高橋の方に滑らせる。
「今回の件、これくらいの予算で考えているんだがね」
俺は目を凝らしてその内容を伺う。見積のようだ。だが、AAの発行した見積書ではなかった。左上に「B」のロゴが入った、BAND側のテンプレートで作られている。微かに「採用」の文字が見える。……おそらくは今回の採用予算の概算を出したものなのだろう。ここからでは細かい字までは見えないが、一番下にある合計金額はフォントサイズが大きく、よく見えた。
……1200万?
いや、ちょっと待て。
年間予算ということなのだろうか。それとも、数ヶ月から1年程度かけて行う新卒採用の話か。いや、それにしたって多すぎる。かつて新卒採用と言えば1000万円以上の受注も当たり前だったと営業一部の古株マネージャーに聞いたことがあるが、リーマンショック以降、業界全体で価格破壊が起こり、今では中途採用とほとんど変わらない金額で契約が結ばれることも多い。
数週間で契約満了となる中途媒体に比べ、長ければ1年以上に渡って掲載が続く新卒媒体は、フォローする側にかかる負担もそれだけ大きくなる。中途採用と同じ金額では、とうていペイできないのだ。だから最近では、新卒案件を嫌う代理店も多い。何を隠そうAAも、内々では「新卒を避け、できるだけ中途案件を」という話は当たり前にされているのだ。
ということは、今回も中途? だが、そうであればなおさら驚くべき金額だ。
全国に支店を持つ飲食店や量販店などならまだわかる。10名以上の社員に加え、数百名のアルバイトスタッフを確保するというような場合なら、1000万円以上の金は普通にかかる。だが、オンライン通販がメインで、実店舗を持っていないBANDにおいて、それほど多くの人間が必要だとも思えない。
……だが、例によって今回の案件内容をまったく聞かされていない俺には、何の判断もできなかった。ハッキリしているのは、仮にその金額が「1回分」のものなのだとしたら、この契約がまとまればとんでもない利益がAAに入ってくるということだ。担当営業にしてみれば、この1件だけでクオーター目標(3ヶ月間の目標)を達成してもおかしくない金額なのだ。
高橋は書類に落としていた視線を、ゆっくりと社長に戻した。その目に戸惑いの色はない。
「随分な金額ですが……いったいどれほど優秀な人材をお求めなんでしょう」
「別にスーパーマンを求めてるわけじゃない」
「じゃあ、なぜ」
社長はじっと高橋を見つめ、試すような目で言った。
「これはまだオープンにはできないんだが、実は近々、当社は新規事業を立ち上げる予定なんだ」
「新規事業……POの事業は順調だと聞いていますが」
「そうさ。あらゆる意味で順調だ。だが、所詮はニッチビジネスだからね。パイが少ないんだよ。業界内でどれだけ勝っていたって、売上自体はウチの事業よりずっと小さい」
槙原社長は「ウチ」というとき、親指で自分を指すような仕草をした。ウチというのは高木生命のことだろうか。確かに、モバイルバッテリーよりは保険の方が、カスタマーの幅は広いだろう。
「……ということは、新規事業は別の分野で?」
「ああ」
その時、高橋の頬にかすかな笑みが浮かんだように見えた。そして、先ほど社長が高橋に向けた、挑むような目で社長を見据えて、言った。
「金融ですね」
槙原社長の顔に、驚きが浮かんだ。だがそれはすぐに消え、今まで以上の深い笑みが浮かぶ。
「美人なだけじゃなく、頭もいいんだな。ますます気に入ったよ」
二人の間で交わされる会話に、俺はついていけない。
金融? なんでモバイルバッテリー屋が金融事業などを始めるのか。保健事業と言われればまだ納得できたかもしれない。だが、それにしたって、わからない。
だが、高橋には事情がわかっているらしかった。
「マネジメントラインは高木生命から。その手足が必要なんですね」
「その通りだ。本当に話が早い」
槙原社長はそして、隣にいる若者をちらりと見る。
「今回のプロジェクトに伴い、何名かできる営業マネージャーをウチから呼んでる。だが、兵隊が足りない……彼のような」
「なるほど」
「彼は正木という、入社1年目の新人営業マンだ。どんな人材を求めているのか。そう聞かれたら、彼みたいな人間だと答えるよ」
彼は正木、という名らしい。俺はあらためて正木を見た。スポーツマンタイプというか、日焼けした肌に短い髪、爽やかな印象で、女にもモテそうだ。
「別に我々は優秀な人間を求めているわけじゃない。言われたことを言われた通りにキチンとできる人間なら、ちゃんと結果を出させる。この正木はね、入社当時はダメダメな奴だったんだ。だけど、ウチに来てウチの研修を受けてさ、変わったんだよ。な?」
槙原社長が言うと、正木はまた驚くような大声で「はい!」と返事する。
「ほんとダメな奴だったもんなあ?」
「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」
ハキハキと答える正木を社長は満足げに見つめ、それから高橋に向き直る。
「ということで、仕事については彼に話を聞いてくれ。新規プロジェクトだから全部話せるわけじゃないが、営業なんてやることはだいたい一緒だ」
「……わかりました。ありがとうございます」
高橋はそう言って、「よろしくお願いします」と正木に頭を下げる。
「お前、俺の悪口は言うなよ?」
槙原社長が首を傾げながら言うと、正木が「はは、そんな、言わないですよ!」と笑う。
その風景を見ながら、俺はよくわからない感情に襲われつつあった。
槙原社長は確かにエロオヤジには違いないが、なんというか、面倒見のいい先輩、という風にも見えなくはない。高校のサッカー部にもこういう先輩はいた。乱暴だし理不尽なことも多いが、できない後輩の練習には何時間でもつきあってやるような先輩だ。個人的にはあまり好きなタイプではないが、正木の笑顔を見ている限り、関係性は悪くなさそうだ。
「じゃ、高橋さん。あとはよろしく。今日はお会いできてよかった」
槙原社長が腰を浮かせながら言い、「採用成功の折は、ぜひどこかで食事でも」と付け加える。
「そうですね、楽しみにしています」
そう答える高橋の顔には、余裕の笑顔があった。だが、社長が頷いて視線を外した途端、冷たい無表情に変わった。
◆
六本木で高橋と別れた俺は、溜池山王駅まで徒歩で移動し、そこから銀座線に乗った。
山手線や総武線といったJRに比べ、なんとなくコンパクトに感じる東京メトロの車両の中で、先ほどまでのアポイントを反芻する。高橋との待ち合わせ前、ビル1Fにあったスタバで感じていたミーハーな気持ちは既になかった。「ジャングル」の先に広がるあの無機質な空間。古めかしく仰々しいスーツを着た槙原社長。そして、その一挙手一投足にビクビクする柳原と、終始過剰なほどの笑顔を見せていた新人営業マンの正木。だが、それらの記憶を検証する間もなく、たった3〜4分で電車は新橋駅に到着してしまった。
どこかぼんやりした心地でHR特別室に戻ると、ソファで室長がいびきをかいていた。保科や高橋の姿はない。
しばらく考えて、オフィスの一番奥、先日保科がクーティーズの掲載履歴を調べていたiMacの前に座った。トラックパッドに触れると、一瞬遅れてディスプレイが立ち上がる。そこには既に、ビジネスパートナーである求人メディア版元のデータベースウインドウが開かれていた。
社名やSコード(クライアントごとに割り振られた番号)を入れて検索すれば、これまでの掲載実績がすべて閲覧できる。他代理店が受注した契約についても一目瞭然だ。連絡が取れなくなった顧客をデータベースで調べてみたら、いつの間にか他の代理店に「抜かれて」いた、という話もよく聞く。逆に言えば、他社の管理Sを「抜いた」場合、そのことはすぐに相手側にも知れる。
俺たち営業マンにとって、このデータベースは欠かせない。新たなリストを渡されたときも、落としたい企業ができたときも、俺たちはコーポレートサイトをググるよりも前にこのデータベースを叩く。所在地や事業カテゴリといった基本情報から、代表者の名前、採用予算の規模、そして募集している職種まで、これを使えばすぐにわかる。
高橋に調べろと言われたのはあの正木という男についてだったが、その前にまず、BAND JAPANをこのシステムで調べないと落ち着かない。
「バンド……ジャパン」
社名を打ち込んでエンターを押すと、数秒でこれまでの掲載実績が一覧表示された。その数、十数件。会社が立ち上がってまだ2年足らずということを差し引いても、掲載頻度は高くない。もっとも、POはオンライン販売がメインだし、製造は海外で行われている、つまり日本国内での製造スタッフ募集が必要ないことを思えば、特に不自然ということもない。
受注会社を見ていくと、様々な代理店と契約しており、過去に3度、AAの名が登場している。つまりAAとしてはBAND JAPANと3度の契約を交わしているということだ。いずれも約50万円で4週間掲載。備考欄には新規窓口受注特典である「掲延」、すなわち掲載延長の文字がある。つまり、2週分の金額で4週間掲載できるオプションが適用されているということだ。これも、想定内。
俺はAA受注の項目にあるテキストリンクをクリックし、その時に掲載された原稿データを表示させた。
見慣れたフォーマット。だが、募集職種は「社内コーディネーター」というよくわからないものだった。仕事内容欄を確認すると、総務部所属の何でも屋のような仕事らしい。「来社されたお客様のご案内」などとも書かれている。もしかしたら、さっき俺と高橋を迎えた柳原は、この職種だったのかもしれない。
一通り原稿に目を通すと、俺は版元データベースのウインドウを最小化し、今度はAAのグループウェアを立ち上げた。さきほどまでのシステムと違い、こちらはAA社内限のものだ。営業マンから事務方まですべての人間のスケジュールが参照できるほか、組織図や申請書といった各書類もDLできる。さらにこちらのシステムなら、各受注の担当営業名と所属部署なども調べることができるのだ。
個人IDとパスワードを入力し、ログインする。契約履歴のデータベースに行き、やはりバンドジャパンの社名を入れて検索ボタンをクリックする。
「ええと……大家って……ああ」
担当営業の欄にあるのは、名前は知っているがほとんど話したことのない営業二部の男だった。確か俺より2年先輩の新卒だ。どこか陰気な雰囲気の小男で、成績は中の中。俺は特に躊躇することもなく、そばにあった電話で、AA本社の営業二部への短縮ボタンを押した。
「お電話ありがとうございます、アドテック・アドヴァンスです」
「お疲れ様です。営業一部の村本ですが」
「あ……はい、お疲れ様です」
電話の向こうの女性は、どこか緊張した風に答えた。営業一部の人間から連絡が入ることなどあまりないのだろう。
「営業の大家さん、いらっしゃいますか」
「あ、はい。お待ち下さい」
保留の音楽が流れ始めたが、ワンフレーズもいかないうちに大家が出た。
「大家です」
「あ……どうも、営業一部の村本です」
「……はい。何か」
その微妙な間に、営業二部の営業一部に対する複雑な感情が読み取れた。自分たちより格上の部署に対する憧れと妬み。それも、大家からすれば俺は2期下の後輩なのだ。だが、顧客のランクも週売上目標も俺の方が高い。
「ちょっとお聞きしたいことがあって。BAND JAPANのことなんですけど」
「ああ……もうそこ、担当外れてるんで」
「ええ、知ってます」
「は?」
俺はどう説明するか迷った。だが、この状況を隠したまま話すのも無理だ。
「自分いま、BAND JAPANの移管先の部署で研修中なんですよ。で、ちょっと情報収集を頼まれたものですから」
「ああ……HRなんとか室」
大家の声に、どこかバカにするような色が混じった。一瞬苛立ちを覚えたが、いちいちつっかかるのも面倒だと、話を進める。
「そもそも、なぜ二部からこっちに移管されたんです?」
「さあ……そんなこと俺にはわからない」
「別にトラブルがあったとか、そういうことじゃないんですよね」
営業部からどうやってHR特別室にクライアントが流れてくるのかはよくわからない。だが、保科のクーティーズ然り、室長の中澤工業然り、何らかの問題を抱えたSが移管されている気がする。
「掲載実績見てないのか? ここは代理店使い捨てのSなんだよ」
「ええ……見ました。数度に一回ってハイペースで代理店変えてますね」
「担当者レベルじゃどうにもならない。まさに鶴の一声さ。別に俺がヘマしたわけじゃない」
「新規オプション狙いなんですね」
俺はさっきデータベースで見た「掲延」の文字を思い浮かべながら言う。同媒体の同サイズの場合、代理店を変えても基本的に値段は同じだ。だが、代理店としてはこういう大きな企業との契約が欲しいため、版元が許す範囲の<サービス>を提供する。それは掲載期間の延長だったり、オプション商品の無料追加だったりする。版元の方も、そうやって代理店同士の競争を煽ったほうが業界が活性化すると考えているのだろう、「チャレンジャー」側の代理店に対して甘いジャッジを下すことが多いのだ。結果、クライアント側から見れば、多少の手間をかけても代理店を次々変えた方が得をする。
「それはわかりますけど……だからってAA社内で担当部署を変える理由にはなりませんよね」
「だから……」
大家は苛立ちを隠そうとせず言った。
「わからないって言ってるだろ。今期になったら俺の担当じゃなくなってた。そんだけの話だ。理由が知りたいなら上に掛け合ってくれ」
苛立つ大家に礼を言い、電話を切った。
大家は何も知らされていない、それは確かだと思った。いや、そもそも特に理由などないのかもしれない。大家の言う通り、俺たち担当営業に断りなくS移管が行われることは珍しくない。ずっと担当してきた顧客が急に別の営業の担当になったり、逆に、誰かのSが自分の担当になったりする。そのいちいちを気にしていたら営業などできない。
俺はカバンから名刺入れを取り出し、高橋から渡された正木の名刺を引き抜いた。
営業、正木一重。
……あの過剰な笑顔が頭に浮かぶ。もともと高橋はこの男について調べろと言っていた。だが、データベースを叩けば情報が手に入る会社ならまだしも、入社1年目の営業マンの情報などどうやって探せばいいのだ。AAのグループウェアのような社内情報にアクセスできるなら可能だろうが、そんな技術は俺にはないし、仮にあったとしても実行したら犯罪だ。
ふと思いついて、スマホを取り出した。Facebookのアプリを起動し、検索窓に「正木一重」と入力してタップする。
……と、珍しい名前でもないのだろう。5〜6名の候補が表示された。それを1件1件見ていったが、年齢が全く違っていたり、登録情報が少なすぎたりして、これというアカウントは特定できなかった。Twitterも同様の結果。だが俺は、その後にダメ元で行ったGoogle検索の結果の中の一つで、今日会ったあの男の写真を発見したのだった。
写真の中の正木は、野球のユニフォームを着ていた。
記事があったのはローカルな新聞社のアーカイブで、内容は、十年ほど前に行われた野球の試合について。野球には詳しくないのでよくわからないが、いわゆる「高校野球」としてテレビ放送される決勝トーナメントの前の、代表校を決める予選の模様を伝えるものらしい。正木の所属する高校はこの試合で敗退した。それなのになぜ正木の写真が使われているのか。その答えは記事の後半にあった。
「怪我……」
正木はこの試合の中盤、敵チームのバッターが打ち上げたフライを取る際、チームメイトと激しく接触。そのまま担架で運ばれ途中退場となった。記事には、全治3ヶ月以上の重症で、夏の選手権への参加も絶望的だと書かれてある。正木はチームの中心的な選手だったらしく、この離脱によりチームの戦力は大幅に下がるだろうと結ばれていた。
俺は新たにタブを開き、「正木一重 怪我」とキーワードを変えて検索してみた。すると、古い2チャンネルのスレッドがヒットした。嫌な予感を感じつつ開き、キーワードが含まれるレス部分を探す。すると――
<正木一重が自殺未遂したって>
<あいつ、怪我して引退してから頭おかしくなったんだよな>
<野球部のヒーローだったのになあ>
<前はカッコよかったよね。私好きだったもん>
<なんか、お前のせいで負けたんだ的なイビリがあったらしいじゃん>
<T先輩たちだろ。正木、あの試合の後、完全に恨まれてたからな>
<すぐ不登校なってたよ。あれ? 退学したんだっけ>
<今は引きこもりでホームレスみたいだってさ。ショック>
<クソデブになってるってマジ??>
それらの投稿は、一番新しいもので5年ほど前のものだ。ディスプレイから逃れるように視線を天井に投げ、想いを馳せる。
これらの情報から想像するに……
試合で怪我をした正木はそれ以降、試合に出ることができなくなった。それを恨んだチームメイトからのプレッシャーに耐えられず、不登校または退学となった。そして正木は引きこもりとなった――そういうことなのだろうか。
そして俺はBAND JAPANで見た正木の笑顔を思い出す。どこか不自然で、過剰な笑顔。
2ちゃんねるの記述がすべて本当だとは思わないが、恐らく、怪我のせいで突然野球人生が閉ざされたことは確かなのだろう。それからの時間、正木はどういう人生を送ってきたのか。そして、なぜBAND JAPANに入社したのか。
俺はソファの背もたれを思い切り倒し、天井を見つめたまま考えた。
◆
正木についてのネガティブな記述を見つけた約1時間後、HR特別室の扉の外で、エレベーターの音がした。
「……うん、ああ、なるほどね」
電話で話しながらの登場は、ここで初めて会ったときと同じだ。そういえばあのときは、某大企業の社長とおぼしき相手を、「エロオヤジ」呼ばわりしていたっけ。
だが、今日の高橋の表情は妙に真剣だった。落ち着いた低い声で、話し相手の言葉に耳を傾けている。
「……で、キャッチできそう? ……うん……うん、OK、じゃあまた連絡ちょうだい」
どこか物々しい雰囲気でそう言うと、相手の終話も(恐らく)待たずにパタンと電話を閉じる。そして間髪入れず、長い髪をかきあげながら反対の手で俺を指差す。
「で、何かわかった?」
「……え、あ、ええと……」
「何がええと、よ。早くなさい」
迷いのない口調。俺を下に見ていることを隠そうともしない。まるでSMの女王様だ。だが、そういう態度をとっても様になる風貌なのだから腹立たしい。
「……まず、BAND JAPANの掲載実績を調べました。それで過去に受注してる営業二部の営業に連絡して、直接話を聞きましてーー」
話し始めて早々、「僕ちゃん」と遮られる。
「え……何ですか」
「あなたの行動を一つずつ順番に聞かなきゃいけないの? ……結論を先に言いなさい」
目を細めて俺を睨むその顔に、思わずゴクリとつばを飲み込む。なんだこの迫力。
……とにかく、結論だ。高橋が求める結論。頭をフル回転させると、ビデオの映像を巻き戻しするように記憶が撹拌される。そして俺の意識は、その中から1枚の画像を探し当てる。
「……野球です」
高橋が眉間に皺を寄せる。
「野球?」
「正木一重は高校の頃、野球部の中心メンバーだった。でもある大会で、チームメイトと激しく衝突して大怪我をした」
「へえ……それで?」
「新聞記事には、全治3ヶ月と書かれてました。正木が途中退場したことでチームは敗退。その件を周囲から責められ、気を落として不登校になった、というような情報もありました」
「不登校……その後は?」
「わかりません。野球の試合について以外の情報は、いわゆる2ちゃんのレスの中から見つけたもので、そちらも確かではありません。ただ、結構辛辣なことが書かれてあって」
そして俺は、正木が先輩たちから恨まれていたこと、不登校になってホームレスのような風貌になっていたこと、さらには、自殺未遂までしたらしいということを、事実でない可能性もあるとした上で伝えた。
「……あの、高橋さん。俺、よくわからないんですけど」
「何が?」
「どうして俺に、正木さんについて調べろって言ったんです?」
「さあ」
「さあって……」
自分は躊躇なく質問してくるくせに、聞かれたことには答えない。……考えてみれば、この部署の人間は皆そうだ。保科も室長も、こっちが聞いた質問にまともに答えてくれはしない。
諦めるものか。無言で高橋の顔を見つめていると、高橋は肩をすくめる。
「別に、具体的な根拠があったわけじゃないわ。でも、彼のあの表情……普通じゃなかったでしょ?」
確かに、正木についての過去を知った上で考えれば、やはりあの笑顔は不自然だったと思う。でも、その印象だってネット上の情報によるバイアスが掛かったものかもしれない。
「確かにちょっとおかしいなと思いましたけど……でも……過去に何があったにせよ、彼が今、ああやって元気に働いていて、しかもいい給料をもらってるのは事実じゃないですか」
俺が言うと高橋は「そうね」と妙に素直に同意すると、俺の隣の席に腰を下ろす。そして髪をかきあげ、バッグからコンパクトを取り出し化粧直しをはじめる。
「……でも、そういう“事実”も含めて、典型的過ぎるのよ。あの笑顔はお面みたいなものに過ぎない。決して心から笑ってるわけじゃない」
「典型的って……何の話ですか」
「私はこの言い方好きじゃないんだけど……わかりやすく言えば」
そして高橋は、コンパクトの鏡越しに俺の方を見た。
「ブラック企業のやり口よ」
「ブラック企業……」
今日のアポがなければ、笑って否定しただろう。そんなはずがない。世界を席巻しているあの<PO>の会社だ。働き方だって“今風”なのに違いない、と。だが、今の俺はあの「ジャングル」の奥に隠されたBAND JAPANの「本体」を知っている。そして、ヤクザのようなスーツを着た槙原社長と、その言葉一つ一つに過剰に反応する社員たちの姿を。
思わず黙った俺から視線を外し、高橋は続ける。
「今の世の中、ブラック企業と言えば、“残業が多い会社”くらいのイメージかもしれないけれど、問題は残業時間の長さなんかじゃないのよ。この問題の根幹には、本人たちも自覚しないうちに完了してしまう“洗脳“の怖さがある」
「洗脳!?」
予想外の言葉が飛び出して、俺は思わず声を荒げた。それに反応したのか、ソファで爆睡していた室長が「ううん……」と呻いて身をよじる。慌ててボリュームを落とし、俺は続けた。
「すみません。……でも、洗脳って?」
高橋は薄いピンク色の口紅を引き、自分の唇を使ってそれを馴染ませる。その様子が妙に生々しくて、俺は目を逸らす。
「六本木であんたと別れてから、私もちょっとした調べ物をしてたのよ」
高橋はパタンとコンパクトを閉じ、こちらを横目で見て言う。
「調べ物?」
「そ。もっとも、あんたみたいにネットでチャチャッとで終わる話じゃない。ある会社の調査員に会いに行ってきたわ」
「調査員って……誰なんですか」
「いわゆる調査系マーケティング会社の人。クライアントから依頼を受けて、対象企業の情報を集めてくるのよ。場合によっては、本当に入社する場合もある」
「入社って……スパイじゃないですか」
「そうよ」
高橋はあっけらかんと肯定する。
「でも、誰でもネットにアクセスできて、SNSのアカウントを持ってる時代なんだから、社員全員がスパイだとも言える」
「そんなの……詭弁ですよ。金もらって情報を盗むのは犯罪だ。仕事の愚痴をTweetするのとは違う」
そう言うと高橋はわずかに驚いた表情をして俺を見ると、なぜか嬉しそうに笑った。
「意外に固いのね。もうちょっとスレてると思ってたけど」
「……からかわないでください。で、その調査員に何を聞いてきたんです」
「情報を盗むのは犯罪なんでしょ? それを聞いたらあんたも同罪だけど」
思わず口ごもると、いよいよ高橋は楽しそうに笑った。
「ふふ、冗談よ。……今回私が彼に聞いたのは、BAND JAPANの導入研修について」
「導入研修?」
「ええ。入社して最初に受けさせられる研修ね」
「どうしてそんなことを」
「ま、今回の案件を引き継ぐにあたり、軽く事前調査してたことは否定しない。そもそも高木生命の“体質”についてはこれまでにも噂は聞いてたしね」
「高木生命? BAND JAPANじゃなくてですか」
「BAND JAPANってのは高木生命の“ガワ”に過ぎない。いいかげん学習しなさいよ。入社するのがBAND JAPANだろうが、受けさせられる研修は高木生命方式で作られてる」
そうだった。あの華やかなBAND JAPANの本体は、高木生命なのだ。
「……それで、何なんですか、その導入研修って」
俺が言うと高橋はもったいつけるように微笑み、高そうなバッグの中から電子タバコの機械を取り出して、吸い始める。すぐに普通のタバコとは違う、バラとかスパイスを感じさせるにおいが漂い始める。
「その調査員に話を聞いたのは大正解だった。何しろ彼、その研修を実際に見たっていうのよね」
「え? じゃあその人、高木生命の社員だったんですか」
さすがに驚いて言うと、高橋は首を振った。
「いいえ。高木生命が毎年4月の前半にに数日間貸し切りにする、山奥にある古いホテルの短期バイトに申し込んだのよ。それで、大ホールを使って何時間も行われるその研修の様子を、給仕スタッフの立場で見た」
「へえ……なんか映画みたいすね」
俺は素直に感心してしまった。だが高橋は怖い顔をして「バカね」と俺を睨む。
「いい? 映画なら2時間で終わりだけど、ここでの経験は下手したら一生引きずる。現実だから怖いのよ」
高橋の言い方に、俺の頭は恐ろしい風景が想像された。プロレスラーみたいな男にボコボコにされるとか、両手足を縛られた状態でナイフをつきつけられるとか……研修というよりそれじゃ拷問だ。
「一生引きずるって……一体どんなことをさせられるんですか」
そういう俺に、高橋は答えた。
「選択肢を、奪うのよ」
「選択肢?」
俺が聞き返すと高橋はフーっと煙を吹き出す。また、花とスパイスが混じったような妖艶なにおいが漂う。
「あなた、洗脳の方法って知ってる?」
そう聞かれて眉間にシワがよるのがわかった。
「……恐怖とか苦痛とかを与えて、相手を思い通りにコントロールするんでしょ」
「違うわ」
はっきり否定されて、思わずカッとなる。
「違わないでしょ。何なんです、さっきから」
「あんたの言ってるのは、洗脳じゃない。それはただの脅迫」
脅迫? ……そう言われてみれば、確かにそうだ。だが、洗脳も脅迫も大した違いなどないのではないか。何かしらの理由があって、相手の言うことを聞かされる。状態としては同じじゃないか。
「……どう違うんですか」
「そうねえ」
高橋は俺の方を向き、そしてバカにしたように目を細める。
「例えば、あんたに彼女がいるとするわね」
「はい?」
「もう何年も付き合ってて、あんたはそろそろ彼女に飽きてきてる。でも、長い付き合いなだけに簡単に別れ話もできない。それに、彼女はあんたにゾッコンで、簡単に別れてくれそうもないわけ。どう、イメージできた?」
「……何の話ですか」
言いながらも、俺にはよくイメージできた。過去に似たような状況だったこともある。
「そんなある日、彼女からウキウキで電話がかかってきた。出てみたら、叫びださんばかりの喜びっぷりよ。一体何があったのかしら」
「知らないですよ、そんなの」
「赤ちゃんができました、って」
思わず息を呑んだ。
……いや、架空の話だ。だが、別れたい相手から本当にそんな電話がかかってきたら、俺はゾッとするに違いない。
「そして彼女は、あなたに結婚を要求した。さあ、どうする?」
「どうするって……そりゃ……」
「ふふ、青くなっちゃって。かわいいわね。……まあ、それで実際どうするにせよ、このときあんたは“脅迫”されていると感じるはずよ。もちろん、やることやって赤ん坊までこさえておいて、それで脅迫だなんて虫がよすぎるわよ。でも、こういう話の方が男はピンと来るかなと思って」
……なるほど、確かに、ピンとはくる。
「じゃあ、洗脳はどうなんですか」
バツの悪さを感じつつ言った。
「洗脳は、そうね……例えばあんたに、尊敬している先輩がいたとする。その先輩は強面で、実際ケンカもすごく強くて、頼りがいがあって、揉め事を収めてもらったこともある。それでいて性格もよくて、悩みを口にすれば、まるで自分のことのように聞いてくれる。カッコいいし優しいしで、あんたは要するに、その先輩に憧れていた」
「はあ」
「でも、そんないい人なわけだから、先輩を慕う人間は大勢いた。あんただけじゃない、たくさんの仲間が彼のことを好いていた。先輩は要するに、仲間の皆に優しかったということね」
「……それで?」
「そんなある日、あなたはちょっとしたことで先輩を怒らせてしまった。……内容はなんだっていいわ。あんたはすぐに謝って、それで先輩も許してくれたけど、でも、そのことがキッカケで先輩は、あんたと明らかに距離を取るようになった。あんたは気が気じゃないわよね。でも実際、電話しても出てくれないし、訪ねていってもそっけない態度を取られてしまう。もう謝罪は済んでるし、もうこうなったらあんたにはどうしようもないわよね。あんたは、先輩はもう俺のことは嫌いなんだと思い、強烈な自己嫌悪に陥る」
「……」
「そんなある日、先輩の方から電話がかかってきた。出てみたら、少し会えないかと言われるわけ。当然、喜び勇んで向かうわよね。でも、待ち合わせ場所に行ったら、先輩はなぜか暗い顔をしている。どうしたんだろうと思っていると、先輩は、実は困ったことになってると言うわけ」
「なんですか」
「ある男が先輩の悪口を広めていて、それによって先輩の人間関係がおかしくなり始めていると。もちろん悪口の内容は事実無根。先輩は身に覚えのない悪い噂を流されて、困っている」
「……」
高橋は一体何の話をしているのか。だが、なぜか引き込まれる。というより、俺は感情移入し始めていた。先輩の悪口を流したやつに、怒りを覚える。いったい、どこのどいつだ。
「先輩はそして、その犯人の名前を言った。あんたも知ってるやつよ。共通の知り合いも多いし、どこでどんな仕事をしてるかも知ってる」
「……なるほど」
「そして先輩はポロリと言うの」
「……なんですか」
「あいつさえいなければな……って」
「……」
「さあ、あんたならどうする?」
「……どうするって」
思わずツバを飲み込んだ。その状況になったら、俺はどうするのだろう。憧れの先輩、恩のある先輩が、困っている。そして、困らせている相手もわかっている。そんなとき、俺はどうするのだろう。
答えははっきりしている気がした。俺はその相手に、先輩の変な噂を流すのを止めろと言うだろう。場合によっては、手が出ることもあるかもしれない。
……だが、俺がそれをするのは、正義感からなのだろうか。もちろんそれもあるだろう。優しい先輩を、嘘の噂で苦しめるなんて許せない。だが、それだけではない。俺は先輩との関係を修復したいと考えている。自分のミスで一度できてしまった溝を、今回の「成果」で取り戻したいと思っている。
黙ってそういうことを考えている俺を、高橋は目を細めて見つめた。そして、怪しい笑みを浮かべて言った。
「ね? これが洗脳」
「……え?」
「実際には選択肢を奪われているのに、それに気づかない。あんたはきっと、その相手を排除しに行くでしょう。あくまで自分が選択したのだと思いながら」
「……」
脅迫と洗脳の違い。高橋の例え話は、悔しいがわかりやすかった。
「……じゃあ、BAND JAPANの正木さんは、会社に“洗脳”されてるってことですか」
そう、もともとはそういう話だった。俺はあの終始笑顔の男を思い出しながら言う。
高橋は「私にはそう見えたわ」と頷き、続ける。
「……というより、それがブラック企業の基本的な方法論なのよ。社員に対して、法律的にも、倫理的にも、あるいは常識的にもおかしい働き方をさせるためには、脅迫じゃダメ。脅迫したって、相手は萎縮し、やがてそのプレッシャーに耐えられなくなって逃げてしまうか、あるいは壊れてしまう。前者ならいわゆる“ブッチ”、後者は鬱病とか自殺とかね。でも、会社としてはそれじゃ困るのよ。働かせ続けることが目的なんだもの。文句を言わず働き続けてくれるロボットみたいな子を作らなければならない」
言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。脅迫で相手をコントロールするというのは、会社にとってもリスクということか。だから、“自分が選択したのだと思わせる”やり方、つまり洗脳を選ぶ。
「……じゃあ、その導入研修っていうのは、洗脳をするための研修ってことなんですか」
「より正確に言えば、洗脳の下地を作るのが最初の目的ね」
「下地?」
「さっきの僕ちゃんの話で言えば、仲の良かった先輩と溝ができたくだり、ね。あの状況を、言わば人為的に作り出すの」
「何をするんです?」
「人格否定」
「……はい?」
「何か適当な理由をでっちあげて、お前はひどいやつだと否定するの。お前はダメだ、お前みたいな人間がいるだけで周りが迷惑する、お前には何の価値もない。そんな言葉や態度を、執拗に投げつける。そしてこのフェーズで重要なのは、情報の遮断。だから、山奥にポツンと建ってるホテルなんか最適よね。スマホや携帯を取り上げればなおよしね。……情報が与えられない中、何度も何度も否定の言葉を受け続けると、自分は本当に価値のない人間なんだと思い始める。あんたが、先輩は俺のことが嫌いなんだと自己嫌悪に陥った、あれと同じ」
「……それで、どうするんですか」
「糸を垂らす」
「糸?」
「一度徹底的に自己否定してしまった人は、どうにか救われようと手を伸ばす。そこに何かしらの糸が垂れてきたら、誰がどういう目的でそれを垂らしたかなんて考えず、無心で掴んでしまうでしょうね。自分を否定した本人からの糸ならなおさらよ。あんたが、先輩からの久々の電話に、喜び勇んで応えたように」
思わずゴクリ、とつばを飲み込んだ。
なんなのだ、この話。
「思い出して? 社長室での出来事。槙原社長と正木さんの会話」
高橋に言われ、俺は記憶を探る。そして思い出した。「ほんとダメな奴だったもんなあ?」と言う槇原社長の言葉に、「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」と正木は答えたのだ。
「今は価値がないかもしれないが、キミは変わることができる。そのやり方は私たちが教えてあげよう。そう言われたら、否定されまくって拠り所を失った人は喜んで従うでしょうね。それに……ほら、僕ちゃんの調べた情報」
「あ……」
そうだ。野球。正木は野球の試合で怪我をして、それで……
「彼は既に、人格否定された状態だった。そこに、どういう伝手なのかはわからないけど、BAND JAPAN、いや、高木生命が現れて、糸を垂らした。……楽だったんでしょうね、会社としては。自分たちがお膳立てするまでもなく、彼は救いを求めていたわけだから。そして彼は会社に忠実なロボットになった」
頭が痛くなってきた。記憶の中のあの笑顔が、途端にグロテスクなものに見えてくる。
「……そうだとして、どうするんですか」
俺は言った。
「何が?」
高橋がタバコを吸いながら首を傾げる。
「契約ですよ。1200万円とかっていう、すごい見積もり出して来てたじゃないですか。あれ……受けるんですか」
受けるに決まってる。頭の中でそう聞こえた。どこに、こんなすごい契約を捨てる企業がある。1200万円だぞ? 当たり前じゃねえか。
だが一方で、正木の人生はどうなるのだ、と思った。あんな不自然な笑顔を浮かべたまま、この先何十年もあの会社で働くのか?
俺のどっちつかずな感情を読み取ったのかどうか、高橋は数秒俺を見つめた後、言った。
「私は“仕事”をするときにしかお金は受け取らない。それだけよ」
◆
HR特別室の入った雑居ビルを出て、新橋駅に向かって歩く。
午後七時少し前。
既に居酒屋にはたくさんの客が詰めかけ満員状態だ。道路にはみ出た“テラス席”で、サラリーマンやOLがもつ焼きをつまみにビールや焼酎を飲んでいる。ビールケースに薄い座布団を載せただけの椅子、店外までもくもくと吐き出される煙、掛け合いのように至るところから聞こえてくる誰かの笑い声。
路地を抜けて表通りに出ると、いよいよ人の数は増える。
まるでいびつな団子のように、人間の塊がひとつづきになって駅に向かって移動している。俺もその流れに体を滑り込ませる。歩いているというより、ゆっくり流されているという感じの遅い歩みの中、なんとなく視線を上げた。その先には、古びた陸橋の上に乗っかった線路。そこからさらに向こうを仰げば、電通本社や汐留の高層ビルが薄暗い空のなかに浮かんでいるのが見えた。この時間、まだビルには煌々と明かりが灯っている。
なんとなく、正木のことを考えた。
正木はきっと、まだ働いているに違いない。六本木のあのビルで、不自然な笑顔を浮かべたまま。
奇妙な焦燥感がふっと湧いた。これでいいのか? 俺はこのまま家に帰っていいのか?
高橋は結局、俺に対して何の指示もしなかった。これからどうするのか、何も教えてはくれなかった。もちろん俺はBAND JAPANの担当営業ではない。研修の一貫として高橋についていっただけで、この案件に何かしらの役目を負っているわけではないのだ。
そう。だから、別に俺が何を気にすることもない。いつものように烏森口改札から駅に入って、JR総武線快速に乗って家に帰ればいい。周囲の人間の流れも、それを肯定するように駅へとまっすぐ進んでいく。
ーーでも。
無表情で改札へと向かう周囲のサラリーマンたち。そのロボットのような顔を見ながら、自問自答する。心の奥の方に、何かが引っかかっている。小さな魚の骨のようなもの。一度その存在に気づいてしまうと、何をしてても気になってしまうようなもの。
なんだ。俺は何を気にしている?
……正木が自分と同年代だったからだろうか。それとも、憧れの企業だったBAND JAPANが、想像と違っていたからだろうか。高橋から聞いた、脅迫と洗脳の話が気になっているのか。
確かにそれもあるだろう。だが、そうではない。もっと個人的な感覚、クライアントではなく、自分自身に関係あること。
そう。
HR特別室のメンバーなら、どうするのだろう?
俺はそう考えていた。クーティーズバーガーの件も、中澤工業の件も、HR特別室の人間は、俺には絶対に思いつかないような方法で「解決」した。いや、受注こそ「成果」だと考えている俺と彼らとでは、そもそも想定している「解決」が違うのだ。
そして高橋のBAND JAPANだ。いま高橋が何を考えているのか、俺にはさっぱりわからなかった。
俺は多分、それが、悔しいのだ。
「くそ……」
俺は、改札へとまっすぐ進んでいく人の流れから出た。そしてJRではなく、都営地下鉄の新宿線ホームの方へと向かったのだった。
◆
約30分後、俺は今朝と同じスターバックスにいた。
既に七時を過ぎているが、客は少なくない。今日二度目のアイスコーヒーをカウンターで受け取ると、ビルのエントランスが見える席に座る。
……何をやってるんだ、俺は。
答えは明確なようでもあり、全くわからなくもある。
俺がここに“戻って”きたのは、まだ働いているに違いない正木を、「出待ち」するためだ。それは自分でもよくわかっていた。だが、なぜそんなことをしているのか、仮に正木に会えたとして何をどうしようとしているのか、それはわからない。
わからないまま、俺はぼんやりとエントランスを眺め続けた。今朝キレイな女が座っていた総合受付はもう閉まっているが、ちょうど退社時間なのだろうか、人通りはかなり多い。
もっとも、新橋駅前とは雰囲気がまるで違う。
ロボットのような無表情で駅へと吸い込まれていく人間の塊ではなく、ここを出入りするのは、小奇麗な格好をしてた「ビジネスマン」たちだ。仕事ができるかどうかと容姿は関係ないようでいて、実はそうでもない。いい企業にいる奴はだいたい格好がいいし、女は美人が多い。あるいはそれは、自分はエリートであるという自信が容姿に現れた結果なのかもしれない。
考えてみれば正木だって、BAND JAPANという有名企業の正社員として働いていて、実際、モテそうな容姿をしていたではないか。
高橋の言うように、仮に正木が本当に“洗脳”されているのだとして、それで彼は本当に、不幸せなのだろうか。
そんなことはないのではないか、という気がした。というより、サラリーマンというのは大なり小なり“洗脳状態”にあるのではないか。会社や上司という「絶対的な強者」に従うことを、自ら選んだ人間なのだ。
わからない。
いろいろなことがわからなくなる。
店について30分ほどした頃、俺はエレベーターを降りてきた正木を見つけた。
慌てて立ち上がると、既に空になっていたカップをゴミ箱に捨て、正木に気付かれないようにその後ろにつく。
正木はきちんとジャケットを着て、手にはビジネスバッグを持っている。取材時にはよくわからなかったが、背も俺と同じかそれ以上には高く、スタイルもよくて、後ろ姿もキマっている。正木の少し前を白人のビジネスマンが歩いているが、その男と比べても遜色ない。
あらためて、俺は一体何をしにきたんだと考える。
冷静に考えてみれば、有名企業に正社員として雇用され、年収も高い正木の境遇は、羨ましがられこそすれ、同情されるようなものではない。
正木に続いてビルを出て、溜池山王方面に歩いていくその後ろ姿を追いながら、それでも俺はなぜか、“尾行”をやめられなかった。それは、正木ではなく「俺自身」の問題のせいなのだと、俺はいい加減理解しつつあった。
HR特別室のメンバーなら、どうするだろうか。
頭の中に、その問が残っている。保科にしろ、室長にしろ、そして高橋にしろ、最初は頭がおかしい人間だとしか思えなかった。少なくとも、俺がAAの営業一部で一緒に仕事をしてきた人たちは、客をバカ呼ばわりしたり、採用ニーズを自ら潰したりはしなかった。だが、俺はどこかで、彼らの「仕事」に対する向き合い方に、惹かれてもいるのだ。
「クソ……」
言い訳のように、小さく悪態をつく。すると、それが聞こえたわけではないのだろうが、十メートルほど前を行く正木がふと立ち止まり、あっと思う間もなくこちらを振り返った。
「……」
正木はそこに俺がいることをわかっていたかのように、俺の顔を真っ直ぐに見ていた。
まずい。俺は咄嗟に視線を地面に落とし、正木には気付いていない風を装って、足を進める。ポケットからスマホを取り出し、適当に操作しながら、立ち止まったままの正木の横を通り抜けた。
「ちょっと」
背後から声をかけられて、今度は俺が立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
そこに、昼間見たのとはまるで違う、泣きそうな顔をした正木の顔があった。
◆
腰よりも高いスツール、正方形の小さなテーブル。その中央には今流行りのカフェ風のデザインで作られたメニューが置かれ、ナイフやフォークの入った籠で重しがしてある。
「いらっしゃいませ」
黒いTシャツに黒いサロンの店員がやってきて言う。いかにもこういう店で働いていそうな、痩せた長身の優男だ。
「当店2時間制をとらせていただいていますが、よろしいでしょうか」
そう聞かれ、俺は思わず向かい側に座る正木の顔を伺った。俺の視線を受け止めた正木は、なんで俺に聞くんだというような顔をして、俯いた。その様子を見て、俺も思わず視線を落とす。
「……あの?」
店員に促されて顔を上げる。
「あ、ああ、大丈夫です」
「お飲み物、いかがしましょうか」
「……じゃあ生2つで。あ、ビールでいいですか?」
俺が言うと、正木は「ああ、はい」と小さく頷く。
店員が手元のiPadで入力を終え、離れていく。すると、また気まずさが戻ってきた。
この店を見つけたのは偶然だ。咄嗟に周囲を探して、目に入った一番近い店に正木を誘った。六本木と溜池山王駅の間、あまり飲食店の多くない界隈にぽつんとある地下のワインバル。それなりに広い店だが、人気があるのだろう、席はほとんど埋まっている。
俺の突然の誘いに、正木は戸惑った表情を浮かべつつも、「わかりました」と言った。俺が咄嗟に付け加えた、「もう少し取材させてもらいたくて」という言葉に納得したのかもしれない。
「……村本さん、おいくつなんですか」
やがて、沈黙を破って正木が言った。
「あ……ええと……26の年です。正木さんは?」
「今年28です」
ということは、2つ上か。
そこに店員が生ビールのジョッキを2つ運んできて、それを狭いテーブルに置きながら、「お食事、どうされますか?」と聞く。チラリと正木を覗うと、「任せます」と言うので、チーズの盛り合わせやアヒージョなどつまみを適当に頼む。
「じゃ……お疲れ様です」
店員が去った後、おずおずとグラスを傾けると、正木も困ったような顔をして「あ、どうも」とそれに倣った。騒がしい声の中でグラスの触れ合う音が一瞬響き、すぐに飲み込まれる。沈黙の気まずさを避けるように、俺達はそれぞれゆっくりとビールを飲んだ。
一体俺は、何をしているのか。
顔の前に迫る黄金色の液体に視線を落としながら考える。だが、その答えがどうであれ、現実にはもう、正木は俺の前に座っている。
こうなることを全く予想していなかったといえば嘘になる。俺は多分、何かを確かめたくて正木をつけた。いや、もっとはっきり言えば、正木と話をするために総武線ではなく銀座線に乗ったのだ。
「あの、正木さん」
ジョッキをテーブルに置き、言った。
「……はい」
そして俺はあらためて、正木の表情が昼間とはまるで違うことに気付いた。
正木は笑顔ではなかった。どこかぼんやりとした、抜け殻のような表情。
……いやそれは、高橋の話からの連想なのかもしれない。一日たっぷり働いた営業マンなら、誰だってこんな顔になるものだ。正木はあのBAND JAPANの営業マンで、社長からも期待されている人間だ。それに応えるためにも、一生懸命働いているのだろう。
仕事モードの昼間と、そこから解放された今で、表情が違うのは当たり前だ。
……だが、そう都合のいいロジックを紡ぎだす俺の理性を、何かが引き止める。
何か。
何かとは、何だ。
<採用ってのは、人間の話だろ?>
<求人広告を売ることが自分の仕事なんて、私は考えたことなんてない>
頭の中に、ふっと記憶が蘇る。
俺はツバを飲み込んだ。そして、言った。
「取材したいというのは本当です。でも私は、仕事の内容や一日の流れじゃなくて、あなた自身の本当の気持ちを聞きたいと思っています」
「……」
俺の言葉は聞こえていたはずだが、正木の表情は変わらなかった。まるで俺がそこに座っていないように、遠くを見るような目でぼんやりとこちらを見ている。
再び沈黙が降りた。
これまで以上に気まずい沈黙だった。客の笑い声が響く店の一角、そこだけ照明が落とされたような気分だ。
やがて、胸のあたりがジワジワと黒ずんでいくのがわかった。
そりゃそうだ。立場が逆なら、俺も同じ顔をしただろう。いや、黙ってここまでつきあってくれただけ正木は人がいい。俺なら、一度しか顔を合わせていない求人業者が後をつけてきていたとわかった時点で怒るだろう。下手をすれば、警察に突き出されたっておかしくない状況だ。
そうだ。当たり前の反応だ。一体俺は何をやってるんだ。
保科や室長みたいな頭のおかしい人間のマネをして何になる。だいたい担当営業の高橋だって、この案件をどう扱うかわかったものじゃない。
「私は“仕事”をするときにしかお金は受け取らない」高橋はそう言っていた。あれはもしかしたら、この案件は受けない、ということなのかもしれない。
自嘲的な笑いが漏れた。
「……なんて、すみません。変なこと言いましたね。忘れてください」
さっさと一杯飲んでお開きにしよう、そう思いながらジョッキを持ち上げたとき、その黄金色の液体の向こうで、正木の顔がグニャリと歪んだのが見えた。
「本当の気持ちって……村本さん、なんですかそれ」
俺はそのまま、ジョッキを静かに下ろした。正木の言葉は、内容だけ考えれば、俺の言葉に同調したような台詞に聞くこともできた。俺の自嘲に対し、「そうですよ、おかしなこと言わないでくださいよ」と一緒に笑うような。
判断がつかないまま、それでも俺は実際、正木の本音を聞くためにこんなことをしているのだ、と考え、質問を続ける。
「御社のオフィスでインタビューさせてもらったとき、仕事が楽しいって仰ってましたよね」
「……ええ」
俺はツバを飲み込み、言った。
「あれって、どの程度本音なんですか?」
「……」
正木が顔を上げ、俺の方を見た。その目が妙に黒く、大きく見える。俺は自分の顔が引きつっているのを感じた。正木の瞳の中に、何か怒りのようなものを感じたからだ。
「いや……あの、あれだけの収入を得るには、けっこう厳しい働き方をしてるんじゃないかと思いまして」
「……ああ」
正木が小さくうなずき、「まあ、甘くはないですよね」と答える。
「やっぱり、そうですか」
「ええ。まあでも、そんなの当たり前ですから。保険の営業が始まったら、今よりももっと大変だろうし」
「……保険?」
俺が言うと、正木はギクリとした顔になって、目を伏せた。
「あの、正木さん。それって社長が言ってた新規事業の件ですか?」
「……」
俺の頭の中で、いろいろなことが繋がっていく。そうか、そういうことか。
実店舗を持たないPOが、なぜ1200万円もかけて営業マンを募集する必要があるのか。槙原社長は「新規事業のため」と言った。始めるのが「金融」の事業だとも。そして高橋が言っていたように、生命保険は金融商品なのだ。
高木生命はつまり、BAND JAPANという健全な「着ぐるみ」をかぶり、ヤクザなイメージのついてしまっている高木生命ではなく、BANDの商品として本来の事業、つまり保険を売り出そうとしているのだ。
「正木さん、教えてください。正木さんはこれから、BAND JAPANで保険を営業するんですか?」
「いや、忘れてください。僕にそれを言う権限はない」
「でも……現職の本音がわからなければ、いい求人にはならない」
「……」
勢い込んで言った俺に、正木は妙な表情を見せた。目を細め、それからふっと笑みを漏らす。
「村本さんは、僕とは違うんだな」
「……違う?」
「ええ、村本さんは多分、そういうこと考えてもいい人なんだ」
「……どういうことです?」
「だから、なんていうか、自分に自信があるっていうか、いや違うな、自分の信じた道を進む勇気があるというか」
「……」
「僕には、そんなものはない。本音が聞きたいって仰いましたけど、これが僕の本音です。僕は、少しでもリスクのない道を選びたい。金って意味でも、安定性って意味でも、既に成功者のいる道を選ぶのが一番確実じゃないですか。……だから、今後もなくならない商品を、既に実績のある大企業で売るのが一番です。もちろん、それを望んだからといって、誰もが希望通りの就職ができるわけじゃない。そういう意味で、僕は幸運でした。こんなにダメな人間を、BAND JAPAN、いや、高木生命が拾ってくださったんですから」
俺の頭の中には、今日HR特別室のPCで見たことが思い出されていた。
<正木一重が自殺未遂したって>
<すぐ不登校なってたよ。あれ? 退学したんだっけ>
<今は引きこもりでホームレスみたいだってさ。ショック>
ふっと正木が視線を上げ、俺をまっすぐに見て、言った。
「こんなダメ人間が、今じゃ年収650万円ですよ。そして先輩たちは実際、1000万円以上を稼いでる。つまり、僕の進んでる道は間違ってないってことじゃないですか」
気がつくと正木は、笑顔になっていた。昼間見たあの、お面のような笑顔に。
◆
遠ざかっていく正木の背中を、俺はよくわからない気分で眺めていた。
店に居たのは30分ほどだろう。最初に頼んだつまみが、思い出したようにドカドカと運ばれてくる頃には、俺と正木にはもう、話すべきことは残っていなかった。俺たちはほとんど無言でそれらを口に運び、そして、どちらともなく席を立った。
渋谷や新宿のような活気はない、静かなビジネス街の夜。
正木の姿が見えなくなっても、俺は何となく動けないままだった。敗北感? 確かに、そういう感覚はある。俺は正木の、いや、正木のあの不自然な笑顔の前に、あっけなく敗北したのだ。
だが、それなら「勝ち」とはなんなのか。俺はいったい、正木をどうしたかったのだろうか。正木をどうすることが、俺の“仕事”だと考えたのだろうか。
わからない。
わかるわけがない。
また、ふっと自嘲の感覚がわいた。HR特別室のメンバーに妙な劣等感を抱いた。それは事実だ。保科や室長のメチャクチャなやり方に、自分の中の何かが動かされたことも認める。だが、あくまであれは、保科や室長といった「もともとおかしな人間」だからできることなのだ。
「メインストリームであろう」と努力してきた自分に合うはずがないのだ。
……何をやってんだか。
再びの自嘲を勢いにして、振り返った。それで全部忘れて、家に戻るつもりだった。さあ、と足を踏み出した時だ。
すぐそばのガードレールに、女が一人腰かけていた。
細い体をガードレールに預け、タバコを吸っている。その細い首がくいと伸び、青白い夜空に水蒸気のような煙が吐き出されたとき、思い出したように俺は気づいた。
「高橋さん……」
呟いた俺を横目で見た高橋は、冗談めかして言った。
「夜遊びなんて、ダメじゃない」
ガードレールから立ち上がると、尻に敷いていたのだろう、レース付きの高そうなハンカチがあった。高橋はそれを慣れた手付きで畳み、カバンに入れる。
「どうして……どうしてここにいるんですか」
当然の疑問を口にした。高橋は肩をすくめ、言う。
「偶然なんじゃない? あんたが彼に会ったのと同じく」
「……」
そうか、と思う。俺は高橋につけられていたのだ。正木をつけていた俺をつける高橋。……だが、何のために?
「まあそんなことはいいわ。夜遊びついでに、ちょっと付き合いなさいよ」
そう言って高橋は、ちょうど通ったタクシーに向かって細い手を上げた。
◆
外堀通りを進むタクシーは、ほんの五、六分で俺たちを新橋駅へと運んだ。「SL広場」として有名な日比谷口。その真ん前で高橋は車を止め、金を払うと、また何も言わずにカツカツとハイヒールを鳴らして歩いていく。
「あの……どこ行くんですか」
「ここ」
振り返った高橋が、指差す。そこは新橋ならどこにでもあるような、薄汚れた雑居ビルだった。入り口脇に十個ほどの看板が出ているが、それらが何の店なのかはよくわからない。間違っても一見で入ろうとは思わないだろう。
俺の返事を待たず高橋は奥へと入っていく。慌ててそれを追うと、細い廊下の先に、古いエレベーターがあった。BAND JAPANのあったあの六本木のビルや、AA本社にある最新鋭のエレベーターとはまるで違う、広さ半帖ほどの箱。そこに、まるで芸能人のような高橋が躊躇なく入っていく。
俺はだんだんと不安になってきた。よく考えずついてきてしまったが、俺は騙されているんじゃないだろうか。ついていった先にはおっかない人たちが大勢いて、何十万・何百万の契約書に無理やり拇印を押させられるのではないか。
中途半端に入れたアルコールが、陽ではなく陰に作用する。馬鹿げたことだとわかってはいる。だが、高橋が何のために俺をこんな雑居ビルに連れてきたのかはわからない。
液晶の中、角ばった数字が増えていき、やがて7階で止まる。
チン、と音がして、扉が開いた。
「あっ……」
俺は思わず言った。そこに見えたのは、想像とはまるで違った風景だったからだ。
落ち着いたバー。
木目調の内装、微かに聞こえる音量で流れているゆったりしたジャズ、そして、エレベーター正面にあるカウンターの中で、ほとんど無表情に近い薄い笑みを浮かべている正装のバーテンダーが二人。
「いらっしゃいませ」
そのうちの一人が言い、頭を下げる。
「カウンターで。シャンパンを2つ。それから……」
席につきながら、手書きのメニューに目を落とす。
「あ、これこれ。いちじくのレーズンバター添え」
「かしこまりました」
カウンターの下にある荷物置きにカバンを置き、高橋の隣に腰を下ろす。
三十秒と立たずに、ピンク色の発泡酒が、どう見ても高そうな細いグラスに入って置かれた。
「じゃ、お疲れ」
「……お疲れ様です」
よくわからないまま乾杯をし、一口飲んだ。
「で、どんな話をしたわけ?」
「え……ああ」
正木のことか、とすぐに思いつく。だが、その前に確かめなければならないことがある。
「高橋さん、どうして僕をつけたりしたんですか」
「は?」
「いや、だって、偶然なわけないじゃないですか。それに……俺が正木さんと会ってたことを知ってたでしょ。つまり、あの店に入る前から俺の行動を見てたってことだ」
そうに違いなかった。だが、高橋はこともなげに言う。
「失礼ね。私の行き先に、あんたがいただけよ。それも、ただいただけじゃない、私たちのターゲットを連れ去った」
「え……ターゲットって……正木さんのことですか?」
俺たちの前にドライいちじくが置かれた。真っ赤なマニュキュアの塗られた高橋の指がそれに伸びる。
「ま、正確に言うなら私の担当は彼じゃなかったんだけど。……まあそれはいいわ。とにかく私は私の思惑のもと六本木のあのオフィスビルに向かった。そしたら、一階のカフェでキョロキョロしている僕ちゃんを見つけた。外からしばらく見てたら、僕ちゃんは何かを見つけて、慌てて立ち上がって店を出ていった」
……あのビルのスタバで張っていたときだ。そして、エレベーターから降りてきた正木を見つけると、俺はその後を追った。俺は横目で、いじじくを頬張る高橋を見る。
「とにかく、その時点で私たちの計画は狂った」
「……計画?」
ターゲットとか計画とか一体何の話だ。
「でも、まあ、せっかくやる気になった新人君を止めるのも忍びないじゃない?」
「それで俺をつけたんですか」
「あんた、しつこいわね。別にそんなことはどうでもいいのよ。だいたいあんたこそ、何をどうするつもりで彼を追ったわけ?」
「それは……」
それを言われると困る。俺にもよくわからないのだ。そして俺はもう、その問に自分で答えをだすことを半ば諦めていた。
俺は正直に話した。
具体的な計画などないまま正木をつけたこと。途中で正木に気づかれて、咄嗟に近くにあったあの店に誘ったこと。そして、正木自身は今の境遇を「甘くはない」と認識しつつも、自分のような人間が高木生命のような大きな企業に拾ってもらって「幸運」だったと考えていること。
「彼はなんというか、彼なりのロジックで今の状況を受け入れていると感じました」
黙って聞いていた高橋は、三分の一ほど残っていたシャンパンをくいと飲み干す。
「おかわり」
差し出すグラスをバーテンが受け取り、「かしこまりました」と頭を下げる。
「何よ、彼なりのロジックって」
「……オフィスで話したでしょう。野球の話。彼が怪我をしたことでチームが負けて、それ以降のリーグ戦にも参加できなくなったって」
「ああ、そうだったわね」
高橋は電子タバコを咥える。すぐに、昼間とはどこか違う、甘い香りが漂い始める。
「ネットに書かれてたあの情報、自殺未遂がどうのって話がもし事実とした場合、彼が安定や保身を一番に考えるのも無理はないと思いました。……実際彼はいま、BAND JAPANの正社員なんだ。年収も高いし、BAND JAPANの後ろ盾である高木生命の社長からも期待されるような存在です。そう考えれば、彼の言っていることも一理あると言うか」
「それであんたは、言われるがままを受け入れたってわけ?」
ふうっと煙を吐きながら高橋が言い、俺は思わずカッとなってそちらを見る。
「じゃあ、高橋さんならどうするんですか。だいたい、誰がどんな職場で働こうが勝手じゃないですか。しかも、本人はそれでいいと言ってる。むしろ、自分は恵まれてるって認識なんですよ? 洗脳だなんだって言いますけど、それを外野がどうこう言う権利はないんじゃないですか?」
俺の剣幕を制するように、お待たせしました、とバーテンがグラスを高橋の前に置く。高橋は小さく「ありがと」と言い、それをゆっくり一口飲む。それから少し大きめのため息をついた。
「鬼頭はさ」
「……はい?」
突然出てきた名前に、俺は素っ頓狂な声を出してしまった。だが高橋はおかまいなしに話を続ける。
「あいつは、入社当時から目立ってたのよね。ああ見えて要領がいいし、頭の回転も早い。商品のこと、施策のこと、上へのアピール方法。誰よりも早くそれを理解して、実践していったわ。結果、あいつは売れた」
「……聞いたことあります」
そうだ。今でこそ“変人”扱いされる鬼頭部長だが、かつてはとんでもない売上目標を毎週達成していたスーパー営業マンだったと聞いている。
「AAのような営業主体の会社にとっては、売上をあげる奴が正義よね。自然、鬼頭はどんどん出世した。リーダーになり、マネージャーになり、統括マネージャーになり、そして部長、そして今では取締役」
「まあ……実際すごいですよね。羨ましい」
本心から言った。あの人個人に対して明確な憧れを抱いているわけではないが、営業マンとしてこれ以上ないような理想的なキャリアだとは思う。しっかり結果を出し、それが認められ、相応のポジションや給与を勝ち取ったのだ。
だが高橋は、「そうかしら?」と言ってタバコを吸う。
「周りがどう思っているかは別として、あいつ自身は今、大きな壁にぶち当たってると感じてるはずよ」
「壁?」
「だからこそ、取締役になった途端、HR特別室なんておかしな部署を作った。そしてそこに、私みたいな跳ねっ返りを配属させた。私だけじゃないわ、保科にしろ室長にしろ、それまでいた部署では変人扱いされる“異端児“よ」
そうだったのか。やはりHR特別室は鬼頭部長が作った部署だったのだ。そして、メンバーを選んだのも。
だが、それならさらに謎は深まる。
「どうして、そんな部署を作ったんです。それに、“壁”って、一体何なんですか」
俺が言うと、高橋はなぜか嬉しそうに目を細め、紅い唇の端から甘い香りの煙を吐く。
「それをわかってほしくて、あんたを送り込んだんじゃないの?」
「……え?」
「この一週間あんたを見てて、なんとなくわかったわ。多分あのバカは、あんたならその壁の本質を見極められるんじゃないかって期待したんじゃないの」
「期待……俺に、ですか」
それは違う、と俺は頭の中で反論する。俺はM社の一件で鬼頭部長を怒らせた。その罰としてこのおかしな部署で研修を受けることになったのだ。……確かに研修を言い渡されたのはM社のキャンセルが発生する前だったが、それでも、電話で話した鬼頭部長が怒っていたのは間違いない。
「まあ、期待と言っても、別に営業力云々の話じゃないわ。私たちがこれからぶつかっていく壁は、小手先のテクニックで乗り越えられるようなものじゃない」
「……」
「そんな中で鬼頭はさ、あんたのその、なんていうの、すれてるようで意外とナイーブな所? 冷めてるようでいて、意外と人の感情を無視できない所? わかんないけど、そこに何かを期待したのよ」
「……なんですか、それ」
褒められているのかけなされているのか、漠然とした話でよくわからない。そもそもこれは一体、何の話なんだ。
俺は咳払いをして、言った。
「とにかく話を戻しましょうよ。高橋さんはこの案件をどうするつもりなんですか」
俺の言葉に高橋は「さあねえ」と呑気な返事をよこす。
「どうするかはまだ決まってないわ。その答えは多分、もうすぐここにやって来る」
「はい?」
俺が言った時、背後からチン、という音がして、エレベーターが到着した。
◆
降りてきたのは、保科と室長だった。
二人は雑居ビルの貧相なエレベーターとこの落ち着いたバーとのギャップに驚く素振りも見せず、何事かを話しながらカウンターに近づいてきた。室長がまるでバスケットのシュートを打つような素振りをし、それを保科が呆れるような目で見ている。
やがて室長が俺に気づき、「おや」と目を丸くする。
「これは珍しい、ええと……」
「……村本です」
驚きを隠しつつ、何度目なのかわからないやりとりをする。どうしてここに室長たちが現れるのか。いや、入店時の様子を思えば、2人はこの店が初めてではないのだろう。慣れた雰囲気の高橋同様、常連客なのかもしれない。
だが、俺は覚えていた。今回の案件をどうするのか、そう聞いた俺に対し、その答えはもうすぐやってくると高橋は言ったのだ。
――あの2人が答え、なのか?
戸惑う俺をよそに高橋は、「ね、向こう、いい?」とテーブル席の方を指差した。バーテンダーは「かしこまりました」と頭を下げる。
「お飲み物はこちらでお持ちしますので、皆様どうぞあちらへ」
礼を言ってテーブル席へと移動する高橋に、保科と室長が続いた。俺も慌てて後を追う。格子柄のパーテーションで半個室のようになった4人席。高橋と保科が隣に座り、向かい側に高橋、俺は空いた席に座るしかない。
すぐにバーテンダーが俺たちのグラスと新しいおしぼりを持ってやってきた。室長はスコッチの水割り、保科は烏龍茶をオーダーする。
それらが運ばれてくると、高橋は乾杯をする間もなく言った。
「で? どうだったの」
いたずらを企む子供のような目。それを室長も嬉しそうに受け止め、うふふ、と笑う。
「いやあ、君の人脈は恐ろしいなあ。確かに見つけたよ」
「何よ、見つけてから言ってるんだから、当たり前でしょ。そんなことより、話はできたの?」
「ああ、随分と長い話をね」
室長は手元の重厚なグラスを掲げ、薄茶色の液体をゆっくりと飲む。
「海が見える丘の施設でね。ありゃもう、ホテルみたいなもんだな。僕、羨ましくなっちゃったよ」
「もう、そんなことどうでもいいわよ。どんな話をしたのか早く言いなさいよ」
「うん、まあ、最初は驚いとったが、僕が後輩だと知って安心したようでね」
「ああ」
「どうしてあの人たちは、自分と同じ大学の卒業者だっていうだけで、あんなに急に態度を変えるんだろうね。……それに先方、僕のこと知っててさ。ああ、君が宇田川君か! とか言って」
「あら、さすが有名人」
有名人? 室長が?
話の内容もさっぱりわからないが、室長が有名人だというのもさっぱりわからない。答えを探すように向かい側を見ると、テーブルに置かれた烏龍茶をストローですすりつつスマホをいじっていた保科が俺の視線に気づき、「バスケだよ」とボソリと言った。
「バスケ?」
「そ。このオッサン、こう見えてバスケの元有名選手」
えっ、と思い、室長の方を見る。
「うふふ、まあ、そうなんだよねえ」
「元でしょ、元」
高橋が冷たくツッコみ、「でも、ほんと使えるわよね、その経歴。羨ましいわ」と遠くを見るような目をする。
俺は思わず首をかしげた。身長は俺よりだいぶ小さいし、体型だって島田のように小太りだ。有名選手どころか、本当にバスケができるのかもわからない。
だがその一方で、いくつかの記憶がすくい出されるように浮かんだ。
初めてHR特別室に行った時、ソファに寝転んだ状態からすごいバネで立ち上がった室長。
中澤工業の事務所に貼られたバスケット選手のポスターに、妙に興奮していた室長。
「同学でしかもバスケ部の有名選手。そりゃ相手も心を開くか……でも、さすがに今回の話は寝耳に水なんじゃないの」
保科が言うと、室長は「それがさ」とどこか悲しげな雰囲気になって答えた。
「僕が行く前から、既に考えていたっていうんだ。一線から退いて、あらためて自分の人生を振り返ったんだと。そうしたら気づくことがあった。BANDへの出資話ももちろん知ってて、それを知った当初はむしろ喜んでいたんらしいんだな」
「当初は、ということは、今はそうじゃないのね。高木生命の本当の思惑が見えてきたってことなのかしら」
BAND、そして高木生命。
……やはりこれは今回の案件についての話らしい。だが、俺にはその全体像がまったく見えない。一体室長と高橋は何の話をしているのか。
「ああ。先方も、引退者とはいえ社内とのつながりが完全になくなったわけじゃなさそうでね」
「なるほどね。で……彼の結論としてはどっちに転んでるわけ」
「まあ、自分の人生そのものの評価でもあるわけだから、そう簡単に結論は出せないだろう。人間、過去の記憶というのはほとんどプライドと同義だからね。だが、後悔している部分はあると言っていた」
「……そう。それで明日の件は?」
「まあ、大丈夫だ。しかるべきところに許可も取った」
室長はそう言いながらスコッチウイスキーを飲んだ。
「さすがね。……で、保科、あんたの方は? 会わせてもらえたの?」
「ああ、まあね」
スマホから顔を上げず保科が答える。
「それで、どんな状態だったの? 話はできた?」
「……いや、ほとんどできなかった。2人で縁側で、ぼーっとしてただけ。でも、お母さん曰く、今日はすごく気分が良さそうに見えるって。訪ねてきてくれてありがとうってさ」
「それって、どういう意味?」
すると保科はスマホを置き、言った。
「俺みたいなどこの馬の骨ともわからない奴でも、訪ねてきたことを喜んでくれるんだ。状況は推して知るべしだろ。俺、マジでムカついてきたよ。彼をあんな風にした奴は、その高級な施設でのうのうと暮らしているわけだろ」
室長の方を睨みつけながら言う保科に対し、室長も視線を落とす。
「君にしちゃいささか短絡的な意見だが……逆に言えば、彼は君がそう思うくらいの状態だったんだろうね。だがね、さっきも言ったが彼は後悔していたよ。彼のような人生を歩んできた人間が後悔を口にする。それがどれくらいのことか、わからぬわけではあるまい」
ふと沈黙が訪れたが、それを高橋が自然に引き継いだ。
「あれだけ大きな会社よ。何人もの人間の人生を巻き込みながらここまで永らえてきた。……いい? だからからこそ簡単には止まれないのよ。むしろ、誰かが止めてくれることを望んでるように私には思えるわ。……特にあの社長にとっては、お兄さんのことがあるわけだから」
「でも高橋さん、結局会わなかったんだろ、今日」
「あら、よくわかるわね。この僕ちゃんのおかげで、予定を変更したの」
そう言って俺を指差し、室長と保科が俺を見た。
「いや……あの、どういう話なのか俺、全然わかんないんですけど」
そうだ。その通りだ。いつだってこいつらは、俺を置いてきぼりに話を進めやがる。
「だから、明日のプレゼンの話さ」
室長が事もなげに言う。
「プレゼン?」
そして高橋はメニューに視線を落としながら、面倒臭そうに言った。
「明日13時、BAND JAPAN。いいわね?」
◆
次の日―。
「あの……これはどういうことなんです」
BAND JAPANのエントランスに現れた柳原は、青い顔をして言った。痩せ型の長身にクリエイターっぽい服装。昨日も俺たちをこうして迎えた、案内役の男だ。
「社長の許可は取れているはずですが」
高橋が事もなげに言うと、柳原は困った顔でうつむき、唸った。昨日以上に怯えた様子だ。
「ええ、それはそうなんですが……ただ、私としても内容を事前に聞いておく必要が、ですね……」
モゴモゴと言う柳原を横目に、「さ、行くわよ」と高橋は俺に言った。
全く取り合おうとしない高橋の様子に、柳原も諦めたのだろう。槙原社長とアポが取れているのは事実らしい。結局それ以上は何も言わずに俺たちを先導し始めた。
それにしても、昨日の今日でよくOKをもらえたものだ、と思う。
……いや、下手をしたら希望を出したのは今朝なのかもしれない。何しろ今回の案件をどうするか、昨晩あの落ち着いたバーに行った時点では決まっていなかったのだ。
俺たちは昨日と同じ“ジャングル”の中を進み、そして当然のように、それを通り過ぎた。つきあたりを左に曲がって、それまでとはまるで雰囲気の違う“壁”へと向かう。
柳原が壁の脇にある電話機を使って中に何事かを伝えると、やがて扉が開いた。柳原はほとんど諦めの境地といった顔で俺たちを奥へと案内する。1つ目の扉を抜けた先のサイネージには、昨日と同じ「未許可の方は立ち入りをご遠慮ください」の文字。電話に向かって昨日同様にペコペコと頭を下げる柳原の細い背中を見ながら、今更のように緊張を覚えた。一体高橋は、いや、“俺たち”は、何をするためにここにやって来たのか。昨夜、例によってHR特別室のメンツは俺に何も教えてくれなかった。ただ、「明日13時、BAND JAPANに乗り込む」と一方的に告げられただけだ。
「あの……プレゼンって、一体何をどうプレゼンするんですか」
サイネージの威圧的な文字と怯える柳原を見比べながら、隣の高橋に小声で聞いた。保科や室長の姿がないことも気になるが、まずは何をしにここに来たのか、だ。高橋は無表情にこちらを見て、何も言わないまま視線を戻す。そしてボソリと、しかし何の迷いもな口調で言った。
「何をプレゼンするかって、そんなの決まってるじゃない」
「……え?」
「価値観よ」
「はい?」
「私たちは、価値観をプレゼンしに来たのよ」
そのとき2つ目の扉が開き、俺達の前にBAND JAPANの“本体”、高木生命が姿を表した。
◆
槙原社長は、明らかに不機嫌そうだった。
「どういうことかね、高橋さん」
ソファではなく執務机の向こうの椅子に体を預けたまま、社長は言った。
「と、言いますと?」
高橋は、薄い笑顔を浮かべ、首を傾げてみせた。槙原社長は眉間にシワを寄せ何かを言いかけたが、それを一度止め、深呼吸した上で、ゆっくりと苦笑いを浮かべた。参ったな、という雰囲気で続ける。
「あなたが個人的な話をしたい、と言うから、私はこうして時間を作ったんですよ」
個人的な話?
すぐに、小さな納得感と、下品な想像が頭に浮かんだ。
なるほど、このエロオヤジは、高橋にそう言われてホイホイと乗ってきたのだ。まさかこの社長室でいやらしいことでもしようと考えたのだろうか。だが逆に言えば、高橋はそういう下心を利用して、こんな急なアポイントを切ったということなのか。思わず頬が緩みそうになった。ざまあみろ、と思ったのだ。さすが高橋さん、やることがエグい。
……だが、すぐに、不安が押し寄せてきた。
槙原社長は、高橋にコケにされたも同然だ。ここまで俺たちを案内し、早々に人払いされた柳原の青い顔を思い出す。今回の相手は、先日保科と行ったクーティーズバーガーや、室長と行った中澤工業とはわけが違う。天下のBAND JAPAN、いや、高木生命なのだ。今回の件が問題になったとき、ぶつかって消し飛ぶのは俺たちAAの方ではないのか。
思わず表情を伺った。だが、やはりと言うべきか、高橋は落ち着き払っている。……保科といい室長といいそしてこの高橋と言い、やはり頭がおかしいとしか思えない。なぜこういう気まずい場面で落ち着いていられるのだ。
「ええ、そのとおりです。私は個人的な見解を話しにきました」
「そうか……じゃ、彼は必要ないんじゃないか?」
槙原社長のギョロリとした目が、恐らく初めて、俺に向いた。
「あ……あの……」
思わず口ごもる俺をよそに、「彼は大事な研修生ですから、いてもらわなければなりません」と高橋は答える。
次の瞬間、ドン! という鈍い音が響いた。ハッとして顔をあげると、槙原社長が今度こそ怒っていた。固く握ったらしい拳が、机の上で震えている。今のは社長が執務机を叩いた音らしい。
「……舐めるのもいい加減にしろ」
ドスの利いた声。冷たい表情。その裏側に感じられる強烈な怒気の気配。中澤工業のタカちゃんもプロレスラーのような迫力があったが、それとは種類の違う、言うなれば、ヤクザの組員ではなく組長の凄み。こういうことに慣れていない俺は、その迫力に物理的な圧迫感を覚え、思わず体を引いてしまった。
……のだが、隣に立つ高橋は逆に、カツカツカツ、と執務机へと向かっていくではないか。
そして……事もあろうに、その机に向かって、拳を振り上げ、そして振り下ろした。
再び、ドン、という音。
目を丸くする槙原社長に向かって、高橋は言った。
「舐めてなどいません。むしろあなたこそ、求人を舐めないでいただきたい」
「……なんだと?」
「結論から申し上げますわ」
「……」
そして高橋は驚きの表情を浮かべた槙原社長にゆっくりと顔を近づけ、ささやくように言った。
「御社の採用課題は………あなたです」
「私が……採用課題だと?」
「ええ、そうですわ」
怒りの為か微かに震えた槙原社長の言葉に、高橋は躊躇なく頷く。
「……どういう意味だ。冗談を言っていい場面じゃないぞ」
俺は思わずツバを飲み込んだ。槙原社長の言葉は、高橋個人だけでなく、俺たちの勤めるAAにも向けられている。今回のBAND JAPANの1200万円という大商いも、社長の判断次第ではなくなってしまうだろう。いや、それで済めばマシなのかもしれない。ポッと出の案件がキャンセルされたところで、利益がなくなるのは確かだが、話がゼロに戻るだけなのだ。
だがもし、公式な形で抗議を受けたらどうなる。高木生命という大きな会社から「AAの営業からこんな対応をされた、AAはひどい会社だと」と表明されたら、AAは大きなダメージを食らう。競合他社が無数に存在する俺たちのような求人屋にとっては、ちょっとしたイメージダウンが大きな痛手となる。
しかし、高橋の後ろ姿は凛としたものだった。
「もちろん冗談ではありませんわ。御社がより大きな成長を目指すのであれば、そして、そのための採用を本気で行うのであれば、まず見直すべきはあなたの考えそれ自体だということです」
「……私の、考え?」
「ええ。求人業者らしい表現をお求めなら、ターゲット設定の見直し、と言い換えましょうか」
ターゲット設定。つまり、どんな人間に対して求人のメッセージを送るか、という設定のことだ。確かにここでミスをすることは多い。経験者が欲しいと言って「経験5年以上」と条件を設定したものの、実際には経験年数より資格の有無の方が重要だった、というようなケースだ。ターゲットが変われば当然、伝えるメッセージも変わってくる。
しかし、槙原社長はふん、と鼻で笑った。
「偉そうに言うな。君らの仕事は私たちクライアントの求める人材を引っ張ってくることだろうが。外野の君らがなぜ、ターゲット設定を見直せなどと言えるのかね」
槙原社長のストレートな言葉に、確かにそれもその通りだ、と頷きそうになった。
俺たち求人屋の仕事は、クライアントの求めている採用を実現することだ。どういう人材が何人、いつまでに欲しいのかを決めるのはあくまでクライアント側で、俺たちではないのだ。
だが、高橋は首を振った。
「いいえ、そうではありませんわ」
「何が違うというのだ」
槙原社長はどこか勝ち誇った顔で言い、手元の引き出しから、最近はあまり見なくなった紙巻きたばこを取り出し、火をつける。そしてゆっくりと立ち上がると、目の前に仁王立ちする高橋を避けるようにして、ソファに座った。
「ま、せっかくだ。話を聞こうじゃないか」
どうぞ、と向かい側の席を勧める社長に高橋は目礼し、それに従った。ゆったりした背もたれのソファに、浅く座る。一瞬迷ったが、俺はその場から動かなかった。高橋の隣に座ったところで、俺にできることなど何もない。それに、徐々に怒りを収めつつあるように見える社長が、また機嫌を損ねないとも限らない。
「つまり君は、私のターゲット設定が間違っていると言うんだね」
「間違っているかどうかはわかりません。ただ、仮に正木さんのような方を採用できたとして、御社がいま切実に求めている、社会的な信頼というものは手に入らないだろうと考えているだけです」
「ほう……君は彼を否定するのかね?」
槙原社長はどこか嬉しそうに、ニヤリと笑った。
なんとなく話が核心に近づきつつある気がする。高橋はいったい槙原社長に何を言おうというのか。槙原社長が、「ターゲット通りの社員だ」と太鼓判を押した正木。そうだ。昨日俺は正木に接触するために新橋から六本木に戻り、そして2人で酒を飲んだ。
正木は今の状況を「幸運」と言った。少しでもリスクのない道を選びたいと、そのためには既に成功者のいる道を選ぶのが一番だと。過去に辛い思いをしたからこそ、BAND JAPAN、いや、高木生命の傘の下で暮らせることに価値を感じていた。
「ま、わからんこともない。あいつの表情や物腰が不自然だとでも感じたのだろう? 確かにあいつはまだ若手で、しかも新人だ。ウチの文化がまだ馴染みきっていない部分はある。私から見ても、まだ力みすぎだと思うよ」
社長は体を起こし、テーブルの上のガラス製の灰皿でタバコをとんとん、と叩く。
「だが、それもじきに慣れてくる。これまでも皆、そうだったんだ。最初は正木のように、ぎこちない。だが、早い者で半年、遅くても1年で、みな立派な“高木生命の営業”に成長していく。そう思えば、正木は非常に優秀だ。入社半年ほどだが、既にいい結果を出している。……どうだね、高橋さん。私が彼に期待し、彼のような人間に来てもらいたいと思うのはおかしいかね?」
高橋は何も言わない。……いや、もしかしたら何も言えないのかもしれない。俺たちはしょせん求人屋だ。社長がこう思っていて、正木ら社員たちもその環境を受け入れているのなら、一体それ以上何が言えるというのか。
黙ったままの高橋に、社長は体を乗り出すようにして言った。
「いいかね、高橋さん。あなたが正木をどう判断したかは知らん。だが、あいつは事実、強くなった。入社した頃は本当に弱かったんだ。あんな状態では、人生を自らの足で歩んでいくことなど到底できない。そんなあいつに、私たちは強くなる機会を与えた。このままじゃお前はダメなままだぞ、だから頑張らなきゃだめだとな。俺たちの差し伸べた手を、あいつは掴んだ。あいつは自分の意志で、強くなることを決めたんだ」
社長の表情は真剣だった。本当にそう思っている顔。
「俺たちのやり方に異論を挟む人間もいるだろう。だがな、そういう奴はしょせん偽善者だ。本当の地獄を見たことがない、ひよっこだ。人生は綺麗事ではいかない。いいかね、高橋さん。正木は潰れる間際だった。あのままじゃ、二度と立ち上がれないまま人生を終えていくだけだっただろう。わかるかね? この厳しい世の中、弱いままでは渡っていけないんだ!」
自分の言葉に興奮するように、語尾が荒くなった。
社長室の中に、しん、と冷たい沈黙が降りた。
「……お兄さんのように、ですか」
やがて、ポツリと呟くように高橋が言った瞬間、槙原社長の目が大きく見開かれた。
「……何の話だ」
そう言って口元を歪めた槙原社長だったが、動揺は明らかだった。真剣だった表情が、どこかバツの悪そうな……いや、というより、まるで吐き気を覚えているような苦しげな様子に変わっていく。高橋は「お兄さん」と言った。お兄さん? それはつまり、槙原社長の兄のことを言っているのだろうか。……だが、もちろん俺はそんな人のことは知らない。
「あの……お兄さんって……」
思わず言った。ソファで槙原社長と対峙している高橋が、その後ろで突っ立ったままの俺の方をチラリと振り返り、言った。
「もともと高木生命は、槙原社長のお兄さんの就職先だったのよ」
「え……」
高橋はそれだけ言うと、さっきまでの饒舌が嘘のように俯いて黙り込む槙原社長の方に視線を戻す。
「お兄さんは社長の4歳年上で、つまり社長が大学生に上がったタイミングで就職した。新卒で入社したのが高木生命。当時の高木生命は、保険業界の中でも勢いのある会社だった。就職先としても人気があって、その中でお兄さんは、高い倍率の入社試験をクリアして希望通りの就職を実現した……そうですよね?」
高橋の問いかけに、槙原社長は視線だけを上げ、呻くように言った。
「……何の話だ、と聞いている。仕事に関係のない話をするな」
「ええ、もちろん。そのつもりで話してますわ」
高橋は事もなげに言い、説明を再開する。
「……一方、社長は実家のある中部地方から東京都内の大学に進学。お兄さんも就職のタイミングで実家を出ていたし、あなたは部活ーー高木生命にも大勢OBがいらっしゃる運動部での活動に忙しく、年末年始くらいしか顔を合わせることがなくなってしまった。そして3年目、社長の就職活動がそろそろ始まるというタイミングで、あなたはお兄さんに相談することにした。何しろ、お兄さんは天下の高木生命の内定を得た“勝ち組”です。経験者からのアドバイスほど為になるものはない。そしてあなたは久々にお兄さんに連絡をとった。そしてそこで、予想だにしていなかった現実を知った」
高橋の意味深な言葉に、槙原社長がピクリと肩を震わせた。
「あなたが連絡した一ヶ月ほど前、お兄さんは一人暮らしの家を引き払って既にご実家に帰られていた。心も体もズタボロになって……」
「え……」
思わず声が漏れる俺をよそに、高橋は続ける。
「聞けば、高木生命での連日の激務、そして上からの強いプレッシャーのせいで、精神疾患を含むいくつかの病気に罹ってしまったと。お兄さんは余儀なく退職し、ほとんど外出もできないような状態になってしまった。……今で言えば、いわゆる引き篭もり状態ね」
「……」
ちょっと待て、と思う。どうして高橋はそんなことを知っているのか。社長が反論しないところを見ると、事実なのだろう。社長の兄が高木生命の出身者で、それも体調不良が理由の早期退職者。それではなぜ目の前の社長は今、このポジションに座っているというのか。自分の兄が受けた“仕打ち”を考えるなら、高木生命に怒りを感じこそすれ、入社を考えるなどありえないではないか。
「あなたは確かに、怒りを感じた。大切な兄をこんな風にした高木生命を許せないと思った。……でもその一方で、こうも感じていた」
「……」
「兄が壊れてしまったのは、兄が“弱かった”からではないかーー」
高橋の言葉に、再びの沈黙が降りる。
たっぷり二十秒ほど黙ったあと、社長はため息混じりに言った。
「そうだ」
そして、いつの間にかフィルターだけになっていたタバコを灰皿に入れると、新しい一本を取り出し、火をつける。
「……君の言う通りだ、高橋さん。どうやってそんなことまで調べたのか知らんが……まあそれはいいだろう。そう、私は兄が純粋な被害者だとは思えなかった。私は就職活動が始まるタイミングで部活動をセーブした口ではあるが、それでも週に何度かは必ずグラウンドに出て、血反吐を吐きながらボールを追っていた。そんな風にスポーツを通じて世の中の厳しさを既に学んでいた私にとって、兄はあまりにも弱々しく見えたのだ。……俺たちは、常に強くあろうとしてきた。チームに弱いものがいれば試合になど勝てない。俺たちは、強くなることが義務だった。体が辛かろうが心が辛かろうが、そんなものは関係ない。それを乗り越えるだけの強さを身につけるだけだ。……そんな私からすれば、途中で潰れた兄は、負け犬だった。俺は違う。どんなに辛かろうが負けたりなんてしない。だから、高木生命に入った」
社長はそう言って、どこか満足気に背もたれに体を預け、タバコをふかす。ふーっと、白い煙を天井に向かって吐く。そんな社長に高橋は言う。
「そしてあなたは、勝ち上がった。激務やプレッシャーを跳ね除けて、この厳しい環境の中で、着実に認められていった」
「そうだ」
「そして今、役員の座も視野に入るようなポジションに座ってる」
「そうだ」
「お兄さんのこと、今ではどう思うんです? もう20年以上、引き篭もり状態なのでしょう」
槙原社長は「そうだな……」と視線を上げ、どこか穏やかさすら感じる口調で言った。
「どう思うのかと言われれば、かわいそうな兄だと考えている。もはやあの男が人生をやり直すことはできないだろう。だから、俺が支えていくつもりだよ。それが俺たちのような人間の責任だからな」
「俺たちのような人間、とは?」
「強くあろうとし、そして実際、強くなった者のことだ。兄ももしかしたら、強くあろうとしたのかもしれない。だが結果、試練に負けて壊れてしまった。……悲しいことだ。だから俺たちは、より効果的に成長させるためのシステムを必死で考えてきた。それが高木生命の作り上げてきた教育制度であり、営業スタイルなんだ」
「正木さんのような弱い者を、強くするシステム、ですか」
「そう、その通りだ」
槙原社長の目に、再び力が戻った。自分の考えに対する自信、迷いのなさがにじみ出る強い目。
「俺は正木に、兄のようになってほしくはない。潰れてしまう前に、早く“強者”にしてやる必要がある。わからないか? 弱いから潰れるのだ。強くなれば潰れない。俺自身がいい見本だ。皆、俺のようになればいい。強き者から教えられれば、自分も強くなれるし、そして、強くなる方法を次世代の人間に伝えていくこともできる」
「……なるほど。では、話を戻しますが、あなたの考え、そしてターゲット設定は間違っていないと?」
高橋の質問に、社長ははっきりと頷く。
「だから言っているだろう。私は自分の成功体験に基づいた考えでやってるんだ。そもそも、これは何も俺独自の考えってわけじゃない。大学時代の部活の監督からチームメイトたちも同じだし、何より高木生命で成功してきた人たちは皆こういう考え方だ。つまり俺は、高木生命の伝統に則っているだけなんだよ」
「ではあくまで、正木さんのような方を対象に採用を行うわけですね」
「くどいな。それが正義になる世界なんだここは。これは高木生命の伝統だ。偉大な先輩たちからずっと受け継いできた大切な成功のメソッドなんだ」
「偉大な先輩、と言うと? 憧れの先輩がいらっしゃったんですか?」
高橋がそう話の矛先を変えると、槙原社長はいよいよ安心したのか、リラックスした雰囲気で言った。
「ああ。数々の先輩がいらっしゃるが、私にとってはなんと言っても都筑先輩だな。かつて俺の教育担当になってくださった方だ。その後は目の見張るような出世をして、数年前までは役員にもなっていた。都筑先輩はあらゆる面で俺の見本だった。憧れたもんさ。……そうだ。俺がこの理論を本気で正しいと思っている証拠を言おうか」
「ええ、ぜひ」
槙原社長の顔に、あのヤクザの組長のような、凄みのある笑顔が浮かんだ。
「その都筑先輩は、俺の兄の教育担当でもあった方だ」
「え……」
声が漏れたのは高橋ではなく俺だった。なんだそれは。自分の兄をあんな風にした先輩に、この人はこれほど憧れているのか?
混乱が押し寄せてきて、そしてそれは、すぐに恐怖に変わった。自信満々でそう言う槙原社長が、自分とは相容れない人間に思えた。一体なんなんだこの人は、いや、この会社は。
高橋も同じ気持ちなのだろうか。社長を前にしばらく黙り込んでいたが、やがて小さくため息をつくと、スッと立ち上がった。
「おや……帰るのかね?」
余裕のある表情でそう聞く槙原社長を無視するように、高橋はカツカツカツ、と音を立てて出口の方へと歩いていってしまう。ちょ、ちょっと待て、と慌ててあとを追おうとしたとき、ソファのところに高橋のカバンが置きっぱなしであることに気づいた。忘れているのか?
仕方なくソファに駆け寄ってカバンに手を伸ばした時、背後で扉の開くガチャっという音が聞こえた。
次の瞬間、ハッとして振り向いた俺の目に、意味不明な風景が飛び込んできた。その意味を理解する前に、高橋が言った。
「今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に」
◆
BAND JAPAN、厳密に言えばそのオフィスの奥に存在する“高木生命”の事務所。その社長室の扉の向こうに現れた奇妙な風景に、俺は数秒間、白昼夢の中にいるような気分になった。
何が起きているのかわからず視線を彷徨わせた俺は、扉の形に四角く切り取られたその風景の一番奥に、柳原の姿を認めた。呆然とした表情。常に不健康そうな雰囲気を醸す男だったが、今は貧血でも起こしたような真っ青な顔をして、眼の前に並んだ人間の背中を見つめている。
柳原の視線の先にいるのは、そうーーHR特別室の面々だった。
眠たげな表情をした室長と、こんな場所にもダボダボのスウェットと汚いスニーカーという格好で来ている保科、モデルのように腰に手を当てて挑むような視線を寄越す高橋。
……そうだ。白昼夢なんかではない。俺はある意味で、こうなることを知っていた。昨晩この面子で行った新橋のバーで、室長と保科も“BAND JAPANへのプレゼン”に参加するようなことを言っていた。
だがそれでも、不可解なことに変わりはない。一体2人は何をしにここに来たのか。どうしてこのタイミングなのか。どうやってあの“ジャングル”を抜け、この「最深部」までやってこれたのか。
そして何より……その車椅子の老人は誰なのか。
室長と保科、そしてその横に立つ高橋の3人の前に、見知らぬ老人がいた。
年齢はどれくらいだろうか。もしかしたら老人と呼ぶような年ではないのかもしれない。ゆったりした開襟シャツを着て、下半身には高そうなタータンチェックのひざ掛け。髪にはまだ黒いものが少し残っているし、体つきも大きく、目つきにもどこか鋭さを感じさせる。しかしそれでも「老人」と感じてしまうのは、なんというか、いわゆる「生気」が感じられないからだろうか。
「都筑先輩……」
俺の後ろで、槙原社長が呟くように言った。それを聞いて俺は、先ほどの高橋の言葉を思い出した。
<今日はお越しいただきました。あなたの憧れの、都筑先輩に>
……やがて室長が一歩前に出て、老人の後ろに立った。車椅子のハンドルに手を置くと、ゆっくりと、だが躊躇のない足取りでこちらに近づいてくる。
「あ、あのっ!」
後ろからヒステリックな声。見れば、柳原だ。
「私には! どうにもできません、社長! 都筑様です! 私に止める権利など!」
その言葉に、今更のように思考が整理されていく。
……そうだ、都筑先輩と呼ばれるこの老人は、先ほどの社長の話にあった「憧れの先輩」なのだ。
柳原からすれば、もっとも恐れる人物である槙原社長の大先輩。いわば雲の上の存在なのだろう。既に引退した人物であることはその風貌からも明らかだが、現職かどうかというのは、少なくともこの会社ではあまり意味をなさないようだ。
都筑老人は妙な表情で槇原社長を見つめた。微笑んでいるようにも、苦笑いを浮かべているようにも、あるいは何かを恥じているようにも見える。何度かゴホゴホと咳払いしたあと、「おう」と掠れた声を出した。
「先輩……どうしてここに」
槙原社長は本当に驚いているようだった。座っていたはずだが、いつの間にか立っている。
「いや……まあな」
曖昧に受け応える都筑だったが、室長が「さあ、こちらへ」と手を差し出すと素直にそれを受け入れ、介助を受けつつ車椅子からソファに移動した。先ほど高橋が座っていた場所に、ゆっくりと腰を下ろす。老人独特のにおいがふっと鼻に届く。
「槇原……まあ、座れ」
都筑の言葉に槇原は戸惑いの表情を浮かべたが、やがて「はい」と頷いて向かい側に座った。
「忙しいだろうに、すまんな……」
「そんな……とんでもありません! こんな所までご足労下さって……ご用事があれば伺いましたのに!」
都筑の前では、槙原社長も一人の“後輩”なのだろうか。その表情には明らかな変化があった。まるで正木のような、どこか作り物めいた笑顔。言葉遣いまで変わっている。都筑はなぜか、そんな槙原社長から目を逸らすように俯いた。そして、呻くように言った。
「槇原よ……俺を恨んでいるだろうな」
「……え?」
「どう言えばいいのか……俺は取り返しの付かないことをしたんではないかと思っている。お前に対しても、な」
「せ、先輩、何を仰います。私を育ててくれたのは先輩じゃないですか! 見て下さい先輩! 私は子会社の社長を任されるまでになりました。これも全て、先輩のご指導のおかげです! 感謝しかありません! 恨んでいるなんて、どうしてそんな……」
「……だが、隆弘は今でも、家にいるんだろ?」
隆弘、という名が出た瞬間、槙原社長の顔がカッと赤くなった。そして、身を乗り出して、テーブルを挟んだ向かい側に座る都筑の肩を抱くような素振りをしながら、「あいつは!」と叫ぶように言った。
「あいつは……兄は……弱かっただけだ! 高木生命の与えた試練に勝つことができなかった。せっかく先輩たちが強くなる機会を与えてくださったのに、それに応えることができず、勝手に脱落していったんです! そんな奴のことを、先輩が気に病む必要などありません! ……先輩、私を見て下さい、先輩は事実、私を成功させてくれた。あんな弱者のことではなく、先輩たちの紡いできた伝統を引き継ぐ、私のような人間を見て下さい!」
……だが、畳み掛ける槙原社長の言葉に、都筑の表情はさらに苦しげなものになっていく。
「違う。違うんだよ、槇原」
「先輩?」
そして都筑はグッと目を閉じ、呻いた。
「その“伝統”こそが、俺を苦しめているんだ。俺が先輩から受け継ぎ、そしてお前たちに強いた、その伝統……。そしてお前が今、かつての俺と同じ様に、若手に強いているその伝統。俺たちはそれが“正しいこと”だと教えられてきた。そこに何の疑いも持たず、いや、疑うことを許されないまま、それだけが正しい道で、ついてこれない奴は間違っていると信じて、ただひたすらに突き進んできた」
「そ、そうです! その通りです! だから先輩もあれほどの役職を得られたのではないですか! そしてその先輩に指導いただいた私も、高木生命の幹部としての成功が見えてきています。それは“正しいこと”ではないですか!」
「違う」
都筑はそして、まっすぐに槙原社長を見据えた。その目に、どこか芯が通った感じがする。槙原社長もそれを感じたのだろうか、かぶりつきだった体を少し引く。
「……違う?」
「ああ。俺は今日、お前にそれを伝えたくてここまで来た。いいか、俺たちは“正しいこと”を知っていたわけじゃないんだ。いいか、俺たちは……“このやり方しか知らなかった”んだよ。このやり方しか知らなかったから、教えてもらえなかったから、これが“正しいこと”だと信じて疑わなかった。だが、どうだ。会社を引退し、外の世界に出てみれば、俺たちが死ぬ気で守ってきた“伝統”など、何もしてはくれない」
「……」
「勘違いするな、槇原。俺は何もお前に、いい子になれなどと言いに来たわけじゃない。ただ、俺たちはどこかで、その“伝統”というものを生きながらえさせるために、利用されてきたんじゃないかということを考えてほしいんだ。お前の兄貴の……隆弘のような人間を俺たちは何人生み出した? 何人の人間を壊してきた?」
「それは……壊れた人間が弱かったからで……」
「槇原、違うんだよ。本当に弱いのは、俺たちの方なんだよ。偉そうにふんぞり返ってきた俺たちだが、実際は、“伝統”の奴隷じゃないか。“伝統”という化け物を生かすためだけに必死で働いてきた、いや、働かされてきた奴隷なんだよ。“伝統”が俺たちに殺しのライセンスを与えた。そして、“伝統”を拒絶する奴らをひたすらに破壊してきたんだ」
都筑はそう言って、また肩を落とした。
「こんなことを言っても、お前には何も伝わらないかもしれない。俺だって会社を辞めるまでは露ほども思わなかったことだ。いや、退職後何年間かは、勤務中と同じ気持ちだったよ。だが、こうして体を壊し、一人で老人ホームで過ごすようになったとき、痛感した。自分とは違う価値観で行きている人たちを目の当たりにし、そして、違う価値観を持つ同士が助け合いながら生きる様子を目の当たりにし、俺は絶望した。いいか、槇原。世の中にはいろいろな価値観がある。そして、別の価値観を受け入れられない人間は、苦しむことになる。……そういう人間を量産する“伝統”など、なくなった方がいい。俺は最近そういうことを考えているんだ」
「……」
槙原社長は口を半開きにし、信じられないという表情で黙っていた。
「いいか、槇原。俺はもう間に合わない。このまま、自分の人生を後悔しながら死んでいくのだろう。だがな、槇原。お前はまだ間に合う。お前自身が変われば、いいか、お前自身だけでなく、お前の部下たちの人生も変わるんだ。そのことを、頼むから一度、真剣に考えてみてくれないか」
◆
俺たちHR特別室の面々は、数十メートル先の風景を黙って見ていた。
BAND JAPANのオフィスが入るビジネスビルの一階ロビー。しかしそれは俺が正木を待ち伏せたあのスタバのある表側ではなく、ビル関係者――それも、一定のレベルを満たしたVIPだけが利用できるらしい特別な裏口だ。
高級ホテルを思わせるゴージャスな作りのラウンジの先に、自動ドアが見える。その向こうのロータリーに、高そうな黒塗りのワンボックスが停まり、モーニングのようなかしこまった服装をした運転手が、前傾姿勢で滑るように出てきた。背景には、東京のど真ん中だということを忘れそうな漆喰塗りの壁と豊かな竹林。ここはビルとビルの間に作られた秘密の空間なのだ。
車椅子を押す槙原社長が運転手に何かを言い、運転手が何度も頷く。離れているし、自動ドアで阻まれているので、槇原が何と言っているのかはわからない。車椅子に乗っている都筑の顔も、槇原の体に遮られて見えない。
俺はぼんやりと、先程までいた社長室でのやりとりを思い出す。
都筑や槙原社長が、唯一の「正しいこと」として信じてきた、高木生命の伝統。会社を辞め、身体を壊して老人ホームに入った都筑は、そこで初めて、異なる価値観を持つ者同士が助け合い、認め合う姿を目の当たりにした。同時に、それまで自分が振りかざしてきた価値観が、まるで通用しないことを知ったのだ。
<わかるか、槇原。俺は老人ホームでは“弱者”だったんだよ>
部屋を出る直前、呻くように言った都筑の言葉が蘇る。
「さ、行きましょ」
高橋が言い、「そうしよう」と室長も同意する。保科は無言でスマホをいじっていたが、くるりと振り返って歩き始める。
「ちょ、ちょっと……あの」
俺を置いてけぼりに歩いていく3人の後ろ姿に、思わず声をかけた。
「何よ」
高橋が振り返り、面倒臭そうに言う。
「これで終わりですか? 俺たち、あの爺さんと社長を会わせただけじゃないですか。申込書も回収してないし」
そう。そうだ。槙原社長は都筑との会話に夢中で、途中から俺たちのことなんて忘れていたに違いない。長く話したせいか都筑が疲労を訴えると、槙原社長自ら車椅子を押し、ここまで送ってきた。俺たちだけ社長室に残るわけにもいかず、一緒についてきたのだ。
「これがプレゼンなんですか? そもそもAAは、具体的なプランを提示していないじゃないですか」
「プラン?」
俺の言葉に、高橋が眉間にシワを寄せた。あんた何言ってんのよ、という顔だ。
「そ、そうですよ。プレゼンっていうのは、プランを提案するものじゃないですか。掲載媒体とかサイズをどうするのか、いつからいつまで掲載するのか、とかーー」
「違うわ」
俺の言葉を食い気味に、高橋はピシャリと言った。豊かな長い髪をかきあげ、見下すように俺を睨む。
「言ったでしょ。プレゼンで提示するのは、価値観よ。そして、その価値観に賛同するかどうかは、クライアントが決めること」
あ……と思う。価値観の提示。そうだ、確かに高橋はそんなようなことを言っていた。
思わず黙り込むと、高橋の隣に立つ室長が、いつものニコニコした顔で言った。
「あとは社長の判断に任せようじゃないか。ま、きっと何かは伝わったはずさ」
「……そ、そんなに簡単に、あの社長が変わるとは思えませんけど」
苦し紛れに言うと、今度は保科が、スマホに視線を落としたまま言った。
「そりゃ簡単じゃないよ。だから俺たちにこの案件が回ってきたんじゃん」
◆
駅に入ってしまうと、人の多さに、俺たちはほとんど会話することもできなくなった。
サラリーマンで満載の地下鉄に揺られながら、俺はぼんやりと考える。
営業とは何か。
そもそも、仕事とは何か。
プレゼンは価値観の提示だ、と高橋は言った。そして、それに賛同するかどうかはクライアントが決めることだと。いまいちピンと来ないが、価値観という言葉をプランに、賛同という言葉を契約に変えれば、印象は変わってくる。プレゼンはプランの提示で、契約するかどうかはクライアントが決めること。
そう考えれば、何もおかしなことなどない。当たり前のことじゃないかと思う自分もいる。
……だが、そうじゃない自分もいる。
本当に「当たり前」だろうか。プランを考え、それを提示し、契約するかどうかはクライアントに委ねる。俺は今まで、そういう営業をしてきただろうか。
違うような気がした。
俺がやってきたのは、プランを考えることでも、契約を相手に委ねることでもない。俺の頭にあったのは、そう、「どうすれば契約がもらえるか」だけだった。相手がうんと言いやすいプラン、相手に気に入られるためのごますり、丁寧すぎるほどのお礼メール、相手の上司に宛てた手書きの手紙。それらすべてが、「契約」のためだった。
それが営業の仕事だ、と思っていたから。
ーー地下鉄の車内、俺はぼんやりと、少し離れた場所にいるHR特別室の3人を見る。乗客でごった返す車内で、室長はあのゆるい笑顔でバスケットのシュートのような動きをし、それを隣の高橋がたしなめる。保科は我関せずといった様子で、2人に背を向ける格好でスマホに何かを打ち込んでいる。
営業とは何か。
仕事とは何か。
あの人たちと一緒にいると、それがわからなくなる。
もしかしたら、槙原社長も同じだったのかもしれない。自分が「当たり前」だと思っていた価値観が、高橋や都筑によって揺さぶられた。自分の考える当たり前は当たり前じゃなかったのかもしれない。もっと別の、それも、もっと素晴らしい道が他にあるのかもしれない、と。
高橋の迷いのない言葉が、そして、都筑という憧れの先輩からの必死の訴えが、槙原社長の価値観を揺さぶった。もちろん葛藤はあるだろう。人間はきっと、それまで自分が信じてきた価値観を、そう簡単には捨てられない。それはそのまま、過去の自分の否定になるのではないかと思うからだ。
……だが、HR特別室の面々は、槇原社長を否定するためだけにここまでしたのだろうか?
高橋、保科、そして室長。以前の俺なら「頭のおかしい奴ら」で切り捨てたであろう彼らが、いま、俺の価値観を激しく揺さぶっている。
◆
BAND JAPANからの帰り、HR特別室の面々と俺は、銀座線の新橋駅に到着した。
電車から一斉に吐き出されるサラリーマンの集団に流されるようにホームに降りると、改札を出て、そのまま地下道を通ってJR新橋駅方面へ。車内でも俺だけ離れた場所にいたせいで、3人との間には気づけば10メートル以上の隔たりができていた。
……というか、少しくらい待つ素振りを見せたっていいじゃねえか。躊躇なくガンガン進んでいきやがって。
それにしても人が多い。金曜だからと言っても、午後三時過ぎだ。あるいは、夜の飲み会のために、皆急いで仕事に勤しんでいるのだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。俺はサラリーマンたちをかき分けるようにして前に進み、そして、3人が階段を登ってSL広場近くの地上に出たタイミングでちょうど追いついた。
「ちょっと、少しくらい待ってくれても……」
思わずつぶやくと、高橋が振り返って「あら、いたの」などと言いやがる。
「さ、行こうかね」
室長が呑気に言い、スマホに視線を落としたままの保科も含め、3人はまた歩きだす。
息をつく間もない。うんざりしながらその後をついていこうとして、あれ? と思う。
HR特別室は、ここを左折してニュー新橋ビル方面に行かなければならない。だが、3人は明らかに正面、虎ノ門方面に歩いていく。
「ちょ、ちょっとどこ行くんですか」
俺の言葉に室長が振り返り、「どこって、宴会だよ」と言った。
「は?」
宴会? なんだそれ。意味がわからない。だいたいまだ日がガンガンに照っている時間だ。
だが、俺がそれ以上何を聞いても、室長は「まあまあ、いいじゃないか」とニコニコするるだけで何も答えてくれなかった。
――歩くこと数分。
「さ、到着だ」
そう言った室長が指差す先を見て、驚いた。
見覚えのある佇まい。そうだ、HR特別室での研修初日、保科と共に来た店……そう、営業一部から出てきた俺が保科の頭のおかしさを見せつけられた店、クーティーズバーガー。
状況が呑み込めない俺をよそに、保科が慣れた感じで扉を開け、中にはいっていく。ガランガランという鈴の音。高橋と室長もその後に続く。俺も慌ててその後を追い、店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ!」
どこか聞き覚えのある声が聞こえ、すぐに奥の方から図体の大きな店員が近づいてきた。
「あ……」
思わず言った。
そうだ、この人は、俺と保科がここに“商談”に来た時、社長と揉めて店を飛び出したここの社員だ。名前は茂木。保科は俺をほったらかしに茂木を追いかけ、そのままHR特別室に連れて帰って“取材”をした。大きな体に似合わぬ、どこか怯えたような態度が印象的だった。だが、どうだ。
「村本さん。お待ちしてましたよ!」
以前の雰囲気が嘘のような明るい笑顔、大きな声。一週間前に会ったときとはまるで別人だ。
「え……ああ、どうも」
「さ、こちらへどうぞ」
よくわからないまま席についたとき、カウンターの奥からもう一人の男が現れた。こちらは茂木より随分小柄だ。前回と服装が全く違うので一瞬わからなかったが、大きなジョッキに注がれた生ビール3つと烏龍茶を盆で運んできたこの人は、間違いなく社長だった。
どこか無理をして「意識高い系」の見た目をしていた社長は今、茂木以上に年季の入ったエプロンに、頭にはこれまたくたびれたバンダナ、という出で立ちだ。
「今日は腕によりをかけて作りますよ。あんたたちには……感謝してるからな」
「……え?」
その時、ガランガランと扉の開く音がした。思わず振り返ると、見慣れぬ男女が店に入ってきたところだった。茶髪の元気の良さそうな若い女と、メガネをかけた真面目そうな小太りの中年男。
「おはようございまーす」
女の方があっけらかんとした様子で言い、俺たちの横を「いらっしゃいませ」とニコニコしながら通り過ぎていく。2人はそのままカウンターの奥へ進み、見えなくなった。その様子を嬉しそうに見ていた茂木がこちらに顔を向け、言う。
「先日採用した新人たちです」
「え……」
「しかも2人とも正社員で」
「え? 正社員で? もう?」
さすがに驚いて聞き返した。原稿が出て一週間も経っていない。ただでさえ採用が難しいと言われる飲食業界の正社員募集だ。この短期間で2名も採用できたとしたら、それは大成功と言っていい。
「2人とも、内定を出したその日から毎日出勤してくれてます。最初ってことでまだディナータイムだけですけど……彼ら、クーティーズバーガーの味を本気で学ぼうとしてくれてるんです。こちらが驚くくらいの熱意を持って」
「そうなんですか……」
半ば呆然としながら答えると、社長がどこか照れくさそうに言う。
「思った以上にたくさん応募が来たもんだから、俺も茂木も、浮かれちゃって。エントリーシートをずらっと並べて、こりゃじっくり選べるな、なんて言ってたんです。……でも、保科さんに怒られちゃって」
「え?」
「あんたらが一緒に働くのはエントリーシートじゃないんだ! そんなもの眺めてる暇があるなら1秒でも早く会え!って」
皆の視線が保科に集まる。保科はちょっと肩をすくめて見せる。
「でも、本当にその通りでした」
茂木が話を継いだ。
「僕らが店のことで悩んでたのと同樣、求職者のみなさんも、それぞれがそれぞれの悩みを抱えながら就職活動をされてるわけですよね。僕らも人間で、彼らも人間。そんな当たり前のことを僕らはずっと忘れていた。そういう視点でエントリーシートを見たら、受ける印象が全然違ってきまして」
「印象?」
「ええ。なんというか、今までってとにかく年齢とか経験しか見てなかったんですよ。でも、そうじゃなくて、その人の人柄とか熱意とか、そういうものが伝わってくるエントリーシートの方が、ずっと魅力的に見えてきて。そういう基準でこれぞ、と思う人にすぐ連絡しました。その日のうちに面接したいって言ったら、驚かれましたけど」
「最初に連絡した2人が、さっきの2人だよ」
社長が言い、嬉しそうに目を細めた。
「茂木の言う通り、彼らの熱意はすごい。だから彼らが入った日から、私もこうしてできる限り現場に入ることにした。彼らに教えたいことがいっぱいあるし、それに、なんていうんだろうな、不思議なもので、彼らに教えることで私が学ぶ部分もある。……本当に今回のことで、私は目が醒めましたよ。まったく、保科さんには頭が上がらない。こうしてお店も使ってもらってるし」
そうだった。俺は思い出して、誰に言うでもなく聞いた。
「ていうか、どうして僕ら、ここに来てるんです? ビール運ばれてきてるし。まだ3時過ぎですよ?」
今度は茂木が驚いた顔をして俺を見た。
「知らなかったんですか? これ、村本さんの送別会ですよ」
◆
人間は驚くと、感情的になりやすいものらしい。
HR特別室の3人は相変わらずだった。俺の送別会だと言いながら、俺に関係のない話をベラベラと話し、そうかと思えば高橋が俺を“ねえ、僕ちゃん”とからかってみせたり、室長は急に立ち上がってバスケットのシュート練習(もちろんエアーだ)を始めたり、保科に至ってはその場でスマホのRPGゲームを始めやがったりする。だが――
なんだろう、これは。
社長が次々運んでくるビールを半ばヤケになって喉に流し込み、茂木が開発したというフィッシュバーガー(これは社長が初めて「悪くない」と認めてくれたものらしい)を頬張っている間に、俺はどんどん感傷的な気分になっていったのだった。
送別会、だと?
社会人になってから、この手のイベントごとは何度もあった。新卒で入社してすぐに歓迎会があったし、3ヶ月の決算ごとにチームや部の打ち上げがあったし、何なら週1回2回という頻度で上司のつまらない説教を聞くために居酒屋に連れて行かれたりした。それがサラリーマンとしての務めであり、一つ一つの飲み会に意味がなかろうが、長い目で見れば、こういう文化に馴染めない人間が出世することはない。そう考えて、イヤイヤながら我慢して参加してきた。
……そう、俺はずっと我慢してきた。
飲み会だけじゃない。
俺は本当は、いろんなことを我慢してきた。
満員電車に乗って通勤することも、客や上司からの理不尽に耐えることも、売上目標を勝手にどんどん上げられることも、そして、仕事の過程にやりがいや喜びを感じられないことも、俺は「サラリーマンだから仕方がない」「まだ新人だから仕方ない」と我慢し、そして諦めてきた。
だが、どうだ。
このおかしな部署のメンバーたちは、何も我慢などしていない。好きな時間に出社し、目上の企業の社長にも啖呵を切り、売上目標どころか自ら売上を捨てるようなことばかりする。
しかし――
そう、しかし。
俺はこの人達のように、自分の仕事に「プライド」を持って取り組んできただろうか。
金になるかどうかもわからないのに、馬鹿みたいに本気になって取り組んだことがあっただろうか。
ふと気がつくと、そんなことを考えている俺を高橋が見ていた。
「来週からは、営業一部のメンバーに戻るわけね」
すると室長も話に入ってくる。
「営業一部と言えば、我が社のエリート部署だものな。すごいよね、ええと……」
「……村本です」
何度目かわからないこのアホくさいやり取り。だが俺は何かやりきれない気持ちになってくる。そこに、さっきの新人店員が追加の料理を持ってくる。茶髪の若い女。まるで大切な壺でも運ぶような慎重さで、キレイに盛り付けられたポテトフライを皿にそっと置く。
「これ、私が揚げたんです。何十回と練習して……でも、何か違和感あったら教えて下さい。次から絶対に直しますんで!」
こちらが引くくらいの眼力で言う。ふと見れば、カウンターの中では茂木と社長が、恐らくは自分より年上だろう中年男に、真剣に何かを教えている。中年男も、額に汗をびっしりかきながら、真剣にそれを聞いている。
……なんだよ。
……なんなんだよ、皆。
こいつらに比べて……俺はどうなんだ。
こんなんで……こんなんでいいのかよ。
「あの」
気がつくと言っていた。理性が、というより、本能が叫んだような感じだった。
「……俺、もう少しここにいちゃダメですかね」
おい。
何を言ってる。
「もう少し、HR特別室にいちゃダメですかね」
バカな。
頭でもおかしくなったのか。
だが、言葉は止まらなかった。
「俺、ここに来て、なんかいろんなことがひっくり返されて、最初はなんだこれって、みんな頭おかしいんじゃないかって思って、いや、今でもちょっと思ってますけど、でも、でも、何か掴めそうなんですよ。だから、もう少しここで、皆さんと一緒に仕事しちゃ、ダメですかね」
酔いすぎだ。
何を言っている。
思わず俯いた。早くも後悔が襲ってくる。だが……だが、何も間違っていないとも思うのだ。俺は事実、そう感じていた。来週の月曜、何事もなかったように営業一部に出勤する自分を、想像できなかった。たった一週間だ。たった一週間、彼らと過ごしただけなのに。
……ちょっとした沈黙の後で、高橋のふっという笑い声が聞こえた。
視線をあげると、いつになく嬉しそうな高橋の顔。
「ダメよ」
「……え?」
「ねえ?」
そう言って高橋は保科を見る。保科はスマホをテーブルに置き、俺の方を見た。
「ダメに決まってんじゃん」
「そんな……」
助けを求めるように室長を見る。室長はいつもの呑気そうな笑顔だ。だが、その口から放たれた言葉は、俺の頭の中にずっと残るものになった。
「君は帰る。それが大事なことなんだ」
「……」
「だけど、営業一部に帰る君は、一週間前の君とは別の君だ。私たちとの仕事を通じて君が何か変化をしたのなら、そしてそれを自分で大切だと思えるなら、君はその変化をほかの誰かに伝えていかなければならない。鬼頭部長がなぜ君をここに送り込んだのか、送り込まれた人間として、君はそれを本気で考える責任があるんだよ」
「やだ、ちょっと良いこと言うじゃない」
高橋がちゃかしながら、手元のビールジョッキを手にとった。隣の保科も、烏龍茶を手に持って掲げる。
「別にどこで働こうが、君はもう、HR特別室のことを忘れることはない。そうだろ?」
そう言って室長もジョッキを持ち上げた。
俺は三人の顔を見回した。その目に、俺をバカにするような色は一切ない。
こみあげてくる涙を奥歯で噛み締めながら、俺もジョッキを持ち上げた。
「乾杯!」
室長の声が響き、次の瞬間、グラス同士が重なりあう高い音が響いた。
「まとめ読み第4話」おわり 「まとめ読みエピローグ」は11/23に公開します。
児玉 達郎|Tatsuro Kodama
ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。
お仕事のご相談、小説に関するご質問、ただちょっと話してみたい、という方は著者ページのフォームよりご連絡ください。