泉一也の『日本人の取扱説明書』第72回「ケイコの国」
著者:泉一也
日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。
教室には机と椅子が置いてある。なぜ?当たり前を疑ってみると、答えが見えてくる。その極意を「はらたいら」に教えてもらった。巨泉のクイズダービーにて。疑う目を持つ「はらたいら」は、普通とは違った角度からクイズの答えを当てる。一方で、篠沢教授は豊富な知識と素直な性格がアダとなって、知恵が必要なクイズを特段苦手としていた。
教室に当然のように存在する机と椅子。この異様な光景。もし子供の頃にこの違和感を持ってしまったら、間違いなく私は不登校になっただろう。目覚めすぎるのが早すぎると、人生苦労が多くなる。
何が違和感なのか。言葉にすればそこに知恵が生まれる。
机と椅子は、人を教室に固定化させ、知識の習得作業をさせる。先生という知識豊富な人が、知識の足らない生徒に教え、生徒は素直にその知識をちょうだいする。親鳥が雛鳥に巣で餌を与えるがごとく。
なぜこの知識伝達作業に莫大な時間とお金をかけるのか。それは、知識とは雛鳥にとっての餌のように、子供達が生きていく上で必須の糧だからである。知識がないと人はこの現代文明では生きて行けない。文明とは知識の積み重ねだからである。もし日本語という知識がなければ、この素敵なコラムも意味不明の模様にしか過ぎない。
小学一年生になると、ランドセルという軍人用の鞄を背負い、毎日同じ時刻に教室に通って、同じ机と椅子に座り先生から知識をもらう。大人たちはその姿を見て感動する。この教室が繰り広げる光景は、トラクターがあるのに、鍬で田を耕すシーンと同じに見えてくるのだ。なぜなら、現代ではグーグル先生から好きな時に好きな場所で知識(餌)をもらえ、それもタダだからだ。
鍬で田を耕す光景は一見、美しいかもしれない。一生懸命に汗水流しながら「大切なコメ」を作る。この労働の美学を刷り込まれた子供達は、将来ブラック企業で生産性の低い仕事をするようになる。
これは美しい呪縛である。美しい呪縛は正論では解けない。もっと美しいもので教室を覆ってあげる必要がある。その美しさとは「道場」である。教室では先生が知識のトレーニングをするが、道場は「稽古」である。稽古はトレーニングと違い、学習の本質が隠れている。
知識が使えるように問題を与えて解かせて、時にはテストをさせて評価する。知識が使えるようになるまで反復をさせる。これをトレーニングという。この「させる」強制力を生み出す場が教室である。
稽古は違う。させるのではない。選ばせるのだ。自分はどのようなスタイルでどのように学ぶのか。どのようになりたいのか。全ては自分の選択にかかっているという「厳しさ」を突きつけられる。答えがない。道しかない。それもどの道を歩むのか選択をせまられる。表面的にはトレーニングをしているように見えるが、道場の底流にはその選択の厳しががある。
稽古の「稽」には止まって考えるという意味がある。いにしえに学びながら、止まってどの道を進むのか考える。Trainingはtrainに乗るがごとく、レールの上を進行形で突き進む。稽古とトレーニングは全く違う世界なのである。
稽古とは選択。竹下景子に3000点。三択の女王は美しい。選択を迫られても、そこで美しく答える景子。クイズダービーにはこの道場的要素が盛り込まれていたのだ。昭和の怪人、大橋巨泉おそるべしである。
泉 一也
(株)場活堂 代表取締役。
1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。
「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。