【コラムvol.45】
『恋』という包装紙をひっぱがす。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.45  執筆/伊藤英紀


ある人に、恋をした。またあるとき、他のある人に恋をした。2度の恋、と人は呼ぶ。まるで同じことを2度繰り返したかのように。

しかし、『恋』という共通する包装紙のような言葉を剥ぎ取ってしまえば、その2度の情感や体験はまったく中身の異なるものだろう。

その人のどこを、どこで、どのように、なぜ魅力的に感じたのか。その人と結ばれると、どんな充足を覚えるのか。遠く思うだけのせつなさなのか。近くにいるのに一つにはなれない苦しみなのか。光に満ちた幸せなのか。破壊ばかりの堕ちゆく陶酔感なのか。

それぞれの物語と感受性は、2度のそれぞれが、きっと別物だ。チューリップの葉と松の葉が同じ植物の葉ではあっても、その形状も匂いも別物のように、別物の情動だ。

同じ丼物という概念だからといって、「鉄火丼とかき揚げ丼は似た食い物。共通の作り方がある」と言い張る人はまずいないように、別物だ。

とにかく人は、まったく異なる2つの別物の心模様であっても、『恋』という一つの概念でひとくくりに結わえる。そういうものだ。

で、その流れで今度は、『恋』という概念を、あたかも機械的な物質のごとく一つの定形であるかのようにとらえる。そして、科学の法則を導き出すように、「恋の成功マニュアル」を編み出したりする。それを真に受けて実践しても、失恋を繰り返すばかりだ、という人が出現したりする。

あったり前だよね、と笑う人の方が多いのかもしれないが、世の中はこれによく似たことがとても多い。

「会社を成功に導く法則」とか「夢を実現する方法」もそうだ。『会社』や『成功』や『夢』は、概念という“包装紙”にすぎない。ひっぱがしてしまえば、一つひとつの会社も、一人ひとりが思い描く夢や成功の意味やカタチも、他とは中身のちがう異質な異物であり、別物だ。

そう捉えるならば、そこに共通の物理法則のような成功セオリーがある、とするのはやっぱりどこかトンチンカンであり無理筋だということになる。

だけどわりと多いんじゃないですか、そういう包装紙的書き物。別物なのだから、個別にしっかりと考えるしかないはずなのに。

会社や成功や夢にしても、包装紙をひっぱがし、目の曇りや偏りを取っ払って、個別のそのものだけを剥き身でとらえないと、大事な芯へとたどりつかないと思う。ああ、芯にたどりついてみたい。

結局、個別に突き詰めていくというのはすごく難しいし、いろいろ見きわめるためには面倒な歩みと時間が必要だ。簡単にわかり易く「成功セオリー」にまとめてもらった方が超ラクだ。考えることの省エネだ。能率化だ。

でも、いくら省エネと能率が好きだからって、包装紙のことばっかり考えていてもしょうがないと思うんですけどね。

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