泉一也の『日本人の取扱説明書』第58回「先輩・後輩の国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第58回「先輩・後輩の国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 

先輩「おいお前、ファンタと焼きそばパンこうてきてえな」
後輩「ハイ、いつものファンタオレンジですね。わかりました!」

後輩「買ってきました」
先輩「おい、ところでどこでこのファンタこうてきたんや」
後輩「学食です」
先輩「あほ、俺は駅前のやまだ屋のファンタが好きいうのん知らんのか」
後輩「それは失礼しました、すぐに買ってきます!」

先輩が幅を利かせる美しい光景である。先輩・後輩といった縦の関係が強い日本では、このシステムに入り「後輩」を我慢すれば、エスカレーター的に先輩に昇格できる。時間の流れとともにヒエラルキーの上にたち従順な手足となる後輩が生まれ“楽ができる”という構造なのだ。

日本企業が取り入れた「年功序列」はこの縦の関係であり、若い頃に我慢をした人たちが、年とともに楽ができるシステムである。年功序列のすごいところは、経験を積んだ人たちが楽になることで余裕がうまれ、その余裕の中で組織全体を俯瞰しながら、水面下の問題を発見し、長期的なビジョンをかかげて新しい世界を広げていった。そして経験に裏付けられた言葉で若手たちを育てた。

ただ、年功序列は実力のない人が威張り、高い報酬を得てしまうという欠陥を含むシステムである。現代は実力主義・成果主義なので、年功序列の欠陥が際立ち、崩壊をしている。職場をみわたせば、後輩が楽をしてその分先輩がしんどそうに仕事をしているはずだ。結果、年功序列システムにあった水面下の問題を発見し、長期的ビジョンを掲げ、若手を育てるという存在がいなくなった。

バブルが弾けた後ぐらいから、先輩後輩という関係性はまだ残っているのに、実力主義と成果主義を形だけ取り入れた日本企業は活氣を失った。

先輩と後輩という関係性の大元を変えないと、実力主義と成果主義は逆効果である。歴史を辿ってみると、先輩後輩という縦の関係性は、地縁と血縁で成り立つ武家が、相性のいい儒教を取り入れたことに始まる。その頃は、儒教でも人間性を高める教育が主であったので、年功序列の欠陥は目立たなかった。武士たちが藩校の中で議論をするとき、人間性の高い先輩が後輩の声を進んでき聞き、衆知を集める場づくりをした。

しかし、西洋的な軍隊教育である義務教育が入った頃から、人間性よりも、上の命令に従順に従うことが主となった。「貴様はそれでも軍人か!」と鉄拳制裁が日常となった。儒教的な年功序列に西洋の軍隊的な従順関係を入れたことで、システムが狂った。この狂ったシステムを経験したものたちが、人間性を高める教育が失われた戦後教育の中で、悪しき先輩後輩関係をじわじわと広げていくことになる。戦前、人間性を育てられたリーダー層が定年退職し、もぬけの殻となった日本企業では、この悪しき先輩後輩関係がはびこった。

では、これからの日本はどうしたらいいのだろうか。世界的な実力主義・成果主義の中では、先輩後輩の関係はもう立ち行かない。だったらその大元に立ち戻って変えてしまえばいい。地縁と血縁を守るために武家が儒教を取り入れたのであれば、その地縁と血縁ではない違う縁で関係性が生まれるようにすればいいのだ。では、何縁なのか。それは「シエン」である。志で繋がり、支えあう関係。つまり志縁であり志援である。家庭も地域も学校も企業も全てがシエン関係になるように、組み替えていけばいい。

企業教育でよくある「階層別研修」はwindows95クラスの古いシステムである。先生(先に生まれた偉い人)と生徒(身分の低い従者)という関係性はもう必要ない。志を見つけ、伝え、応援しあえる関係性が生まれる「志援ワークショップ」に総入れ替えする時である。

 

著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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