「ハッテンボールを、投げる。」vol.6 執筆/伊藤英紀
ある他人に対して、「あいつはバカ」という偏見を持つ人に、
「お前のその見方は偏見だ。あいつはバカじゃないぞ」と
中立的な立場で客観的に進言したところで、
その人はまず、偏見から脱することはない。
なぜなら、
「俺はあいつより賢い」という非常に心地よい偏見を、
自分自身に対して抱いているのだから。
つまり、他者に「あいつはバカ」というレッテルを貼るのは、
自分の手で自分自身に、
「俺はあいつよりずっと賢い」というレッテルを貼っているということだ。
このように、『浅はかで酷いレッテル貼り』をする人を支えているのは、
自分自身への『非常に気持ちいい自己肯定的レッテル貼り』なのである。
せっかく自己肯定感に酔っぱらえるレッテルを手に入れたのに、
誰かの忠告くらいで、恍惚を与えてくれるレッテルをはがすわけにはいかないのである。
理由は簡単だ。そうするためには、
『俺はバカじゃない人にバカというレッテルを貼る、本物のバカだ』
という自己否定のレッテルに貼り変えなきゃいけないのだから。
人間は誰でも偏見を持ち、他者にレッテルを貼る。
それは、人間の業だと思う。だけど、「業に支配されてたまるか」という
誇りや意地があるのであれば、やれることは一つしかない。
できるだけ若く早い時期から、自分を肯定するために貼った、
根拠の薄弱な『他者攻撃のレッテル』をはがす習慣をつけることである。
本当の自信は、こういう『自己欺瞞のレッテル』を、苦しみながらはがしては捨て、
はがしては捨て、を繰り返して、ようやく身につけられるものだろう。
レッテル貼り、という行為が、社会で増えているとするならば、
その理由は、他者への思いやりがない人が増えたというより、
自分に対して客観的な評価ができない人が増えたからであり、
自分を客観的に評価できる環境を、人が失いつつあるということだろう。
なぜそうなったのか。
見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞き、
不愉快を感じそうな情報源にはフタをし、自己肥大化する。
そんな環境が整ったことも一因ではないか。
たとえば、SNSやネットで
同質な意見や感覚を持つ者だけが寄り集い、
自分たちにとって快適な小さな水槽で戯れることを習慣化した人が、
わざわざ異質と出会って衝撃を受けたいとか、
わざわざ違う考えや価値に出会って自己の足元をくずしたいとか
わざわざ自分の10倍も20倍も優れた見識を有する人物に会って
自分の矮小さに気づきたいとか、そんなことを思うだろうか。
思わない。そんな行動はしない。
だったらどうするか。そういう機会を、システムとして社会に組み込むしかない。
言うまでもなく、会社も社会の一部である。
会社に、社員が異質や有能と出会ってしまう機会を、つくること。
もし、視界が広く、客観性を持つ社員を増やしたいのであれば。
もし、自分自身や部下にレッテルを貼って、
よきリーダーが出現する可能性をつぶすような愚行を減らしたいのであれば。
そうするしかないのではないか。
私も中小企業の一員である。
中小企業は同質性の巣窟になりがちだ。
大手も危ないが、中小企業はもっと危ない。私が、危ない。
とはいえ、多忙な現実の中で、異質にたびたび対面することはかなり難しい。
でも、あきらめることはない。たった千数百円でできることがある。
「本」や「映画」を通して、異質な他者の人生物語や言説や感じ方を、
疑似体験するのだ。とはいえ、偏った読書になってしまうのであれば、
それはさらに危険なことなのだが…
ありきたりな社員研修に投資する会社は多いが、
社員読書に投資する会社は、ほぼないのではないか。
どうですか。御社、試してみませんか。
わが社?社員に求める前に、私が異質との出会いを増やさなきゃなりません。
最近、自分の視点と考えが凝り固まり過ぎているぞ、と感じているのです。
私が凝り固まっていると、社員に伝染してしまいますから。
(次回へ続く)