【コラムvol.16】
数字に追われる仕事は嫌だ!
というあなた。逃げる方法は、
数字で人生を考えること、でっせ。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.16  執筆/伊藤英紀


「数字に追いまわされる仕事なんて、わびしい。ツライ。」
そうこぼす人、わりといますね。

「数字はしょせん無機質なもの。そんなものにとらわれる人生は、貧しいよ」
という方向に気持ちをもっていく。そんなタイプが、一定数いる。
いつも数字がかんばしくないから、自分を立て直そうと。

んで、そんなタイプの中には、
「人生にはもっと大事な価値がある。
カルチャーへの感受性やニンゲンへの愛が大事なんだ」
と、安普請の文学派みたいなことをぼやっと思いつつ、たとえば、
遠い異国の内戦に苦しむ子どもたちへの哀れみを周囲につぶやいたりしながら、
“ピュアなヒューマニスト像”をおしだしがちの人もいる。

ところが、じゃあ、
異国で苦しむ子どもたちのために寄付をするか、というと、しない。
内戦という悲劇を生んだ政局や民族の情勢を勉強するかというと、これまた、しない。

じゃあ、その“ピュアなヒューマニスト像”ってなあに?
もしかして、ふり?ということになる。

ネトウヨとかもそうかな。人生は数字じゃない。国家や愛国心が大事だ!
と、まともな右翼でも保守でもないくせに、数字人生から逃げているのかもしれない。

偽善というと大ゲサだから、ごまかし、といいますか。
数字を実現できない自分の不安を隠蔽するために、
いわばヒューマニストの仮面をかぶって、
「オレは数字にとらわれる薄い人間じゃない!」という、ふり、をするわけですね。

そんなごまかしで、ほっかぶりしていると、
ますます数字に追いかけまわされるはめになるぞ、
しかも、人生を通してずっと、と僕は思います。

所詮、ふり、ですからね。忘れようったって忘れられないし、
ふりをしていても早晩、上司から仮面をむしりとられる。
「おい、お前。数字どうなってんだ?ああん?」と不機嫌な声で、
現実を突きつけられるのであった。

なんとかしないと、会社での居場所がなくなる。
数字から逃げれば逃げるほど、追いかけられる、というか、追いつめられる。
恋人からも見放される。うだつがあがらないオトコねえ、と。

どんな仕事でも、数字がついてまわります。
というか、まわらなければ、仕事じゃない。こっちが正しい。
ヒューマニストくんが好きな作家だって、アーティストだって。
ちゃんとプロとしてメシを食っている人は、数字をしっかり見つめているはずです。

原稿料は?講演料は?印税は?売れ行きは?
執筆締め切り日時は?何千字のコラム依頼?取材旅行は3か国を6日間で
きっと、数字マネジメントだらけでしょう。

サラリーマンで、営業じゃない人もおなじ。人事だって工場スタッフだって、
みんな数字。いつまでに何人の母集団形成をして何人採用するか。
製造計画も数字だらけ。サラリーマンじゃない大工さんとか
看護師さんもみんなそうです。
時間や行程や工費という数字を念頭に、できる人ほど働いている。

まあ、当たり前の話なんですけど、
まともに働き、まともに生きるということは、まともに数字を考えること。
家庭生活なんて、家計が土台ですからね。
まともに数字を考える人ほど、幸福度が上がる、ともいえる。

じゃあブラック企業は?となりますが、
数字に追われてつらいのは、数字のせいではない。
勤務時間や販売ノルマという、数字の規範や設定が異常値だ、ってことでしょ。
社長や上司の考え方が異常だ、ってことで、なにも数字が悪いわけじゃない。

だからブラックは罪なのだ。数字を追う人生そのものが悪い、
数字は過酷だ、という印象を社会に与えてしまうなんて、これは大罪です。
若い人の人生観をゆがめ、数字という大事な価値基準を、貶めてしまうのだから。

2件のコメントがあります

  1. これまで数多くの経営者やビジネスマンに会って来ましたが、仕事が出来る人は例外なく数字に強いです。数学ではありません。念のため。

  2. 目の前の数字には無頓着なのに、
    夢やビジョンへの志の高さをアピールする若者に、
    なんどか会ったことがあります。

    志しが高く夢が大きい僕だから、
    目の前の数字という、レベルが低く小さいことはどうでもいい。
    そう考えているようでした。

    この考えが壁になるかもしれない。そう感じました。

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