人生が織りなす複雑で立体的な模様を、
痩せ細らせ単純化してしまう運命論者のように、私には見える。
しかし、こんな因果観と運命論は、現実的にいって、間違っていると思う。
なにかをやったことが、どんなプロセスでなにを巻き込み、
その歩みがどう枝分かれし、どこへ向かって進むことになり、
どんな結果を引き起こすか、生み出すか。本当は誰にもわからないからだ。
人の取り組みというものは、河川が上流から下るに従い
その様相や表情を変えるように、まったく予想のつかない展開を見せるもの。
山や岩、のぼりの傾斜を迂回し、水路をぐにゃぐにゃと曲げながら、
やがていくつもの支流に枝分かれし、あるいは合流し、
さまざまな生命を育みながら、いろんな用途に利水される。
ときには人と人の出会いや憩いや語らいの場となり、
思ってもみない産業を生み出すこともあるかもしれない。
さらに打ちこみたくなる新しい機会をくれることもあるかもしれない。
もちろん決壊して安らかな日々を押し流し、
こんなはずじゃなかったと、治水の難しさに泣かされることもある。
うまくいくかどうかわからない取り組みは、
決して結果へのまっすぐな単線などではなく、
悲喜こもごもの肥沃さがあり、凹凸と曲線と変動と物語を持つ
幾筋もの豊かな水脈を生むのだと思う。
「できなかったから無駄骨だった」「できたから丸得だった」という、
ぺっちゃんこな答えでは割り切れないふくらみが得られるのだと思う。
それが大河だとしても、せせらぎだとしても。
もっともっともっといえば、
うまくいくとわかっている取り組みが、人生にどれだけあるというのか。
そもそも、うまくいくとわかっていることは、取り組みとは呼ばない。
それは、単なる“いつかの反復”であり、“いつかの再現”に過ぎない。
人生は思いがけないことの連続であるはずだが、
もしもその人が、“プログラムされた機械的な反復”、“結果が約束された再現”に、
終始してしまうのであれば。
残念ながらその人は、“思いもかけない幸運や喜び”には、
ほぼ出会えなくなってしまうかもしれない。
せっかく山河に囲まれた国で生きているのに。
水脈の豊かさがもたらす恩恵にあずかっているのに。
自分の人生で水脈づくりを楽しまないのは、
じつにもったいないことだと思うのだが。
さて、現在は20時04分。書きあがったことだし、
これからRCサクセションの<いいことばかりはありゃしない>でも聴きながら、
お酒を飲むことにします。
(次回へ続く)