【コラムvol.31】
家族は、部族である。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.31  執筆/伊藤英紀


家族は、部族である。
こんな言い方をすると
不愉快に感じる人がいると思うが、
部族とは、部族外より、
部族内をひいきにする。
部族内の規範やルール、
部族内の安定的幸福を
大事にする。
そんな内輪志向の
人間集団であり、
家族はその特徴が顕著だ。

たしかに、家族はかけがえがない。
愛しい思いが、
人生にふくらみと彩りをくれる。
苦しみを軽減し、励ましてくれる。
困ったとき、まっさきに助けてくれる。
生きる孤独から救い、癒してくれる。
気取りなくパジャマでリラックスできる。
ともに食べ、笑い、眠り、めざめる。
おはよう。いってきます。
いってらっしゃい。気をつけてね。
さりげない日常と言葉に、
安寧を感じる。
人生に意味と拠り所を与えてくれる。

しかしそれは一面だ。
逆も真なり、である。

家族だから言えない。
そんな苦しみや孤独もある。
家族だから、言葉が制限され、
行動が抑制される。
そんな忍従もある。
家族ならではの愛情に縛られ、
いい家族像に囚われ、つい自分を
制御したり隠蔽したりしてしまう。
あるいは、自己抑制や隠蔽を
愛情という仮面のもと要求されてしまう。
そんな抑圧もある。
家族の絆の名のもとに甘えさせ、
相手の依存度を高めることで、
支配力を強化する。
家族の感じ方、価値観を大事にすることで、
家族外のそれに対して、不寛容になる。
ときに、攻撃したり見下したりする。
そんな排他性もある。

合理ではまわりにくく、
愛や思いやりという情念に支配されがちで
共依存に陥りやすい。
排他的で、独善的になりやすい。

それも、家族のもう一つの側面だと思う。

僕自身は、家族の負の側面を、
できるだけミニマム化するために、
「家族らしい家族」という強迫的な定型から、
脱出するよう努めている。
かなり難しいことですが。。

支配や共依存や独善の少ない
ラクな家族であるためには、
ときに家族らしくあってはならない、
家族っぽさを放棄し、
他人のような距離感でつきあう、
という逆説を、それなりに信じています。

人間同士として
尊重しあうためには、
家族という鎧は
ときに阻害要因になる。

具体的にどうするかについては、
プライベイトなので伏せますが、
少なくとも、
「娘さんがお嫁にいったら、
伊藤はサミしくて泣くんじゃないの?」
というバカバカしい言葉には、
「あん?なんで?」と
冷たい顔で返すようにしています。

家族は僕の所有物じゃないんだからさ。
みんなもう大人で、
自分で住んで、働いて、
食っている人間なんだからさ。
泣く?いまどき。

家族と、
豊かに自由に生きること。
家族外の人間と、
豊かに自由に生きること。
この2つのはざまで、
人はよりよい生を求めて、
ジタバタともがいている。

どういうカタチやバランスがベストか、
という答えはない。
だから、自分で迷い考え、もがいている。

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