第78回 助け合いで失うもの

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自覚して生きている人は少ないですが、人生には必ず終わりがやってきます。人生だけではありません。会社にも経営にも必ず終わりはやって来ます。でもそれは不幸なことではありません。不幸なのは終わりがないと信じていること。その結果、想定外の終わりがやって来て、予期せぬ不幸に襲われてしまうのです。どのような終わりを受け入れるのか。終わりに向き合っている人には青い出口が待っています。終わりに向き合えない人には赤い出口が待っています。人生も会社も経営も、終わりから逆算することが何よりも大切なのです。いろんな実例を踏まえながら、そのお話をさせていただきましょう。

共助で意欲がなくなる?

「この習慣のせいで、私達は豊かになれないんだよ」
モロッコのビジネスパートナーの叔父にあたる、
ムスタファが言いました。

私はモロッコから商材を輸入するため、
商品開発の目的で現地に滞在していました。
そこで、パートナーの親戚の集まりに招かれ、
羊を生贄として捧げる儀式を見ながら、
この言葉を聞いたのです。

イスラム教は一週間ほどの犠牲祭(イード)があります。
その期間で聖地メッカへ巡礼することが理想ですが、
それがかなわない大部分の人たちは、
生贄を捧げて、その地域でお祝いします。

モロッコでは、イードの期間中、親戚一族が集まって、
羊を一頭さばいてみんなで分け合います。
羊一頭は1ヶ月分の給料と同じくらいと言われています。
私はその期間にモロッコに滞在したのですが、
車のトランクからはみ出ている羊を何頭も見ました。
リアル”ドナドナ”です。

親戚だけではなく、地域の人々にも分け与えます。
モスクに集まって、炊き出しも盛大に行われるのです。
地域や親戚のきずなを確かめ合い、
共助の仕組みがそこにあります。

日本でも同様のことは、ならわしとしてあります。

例えば「伊勢講(お伊勢参り)」です。
私の出身地の田舎では、
近所の呑兵衛の集まりとして未だに存在しました。
かつては、お伊勢さんに参拝する村の代表を選んで、
送り出す会だったそうです。
地域でお金を出し合って、
代表者が伊勢神宮に参拝するしきたりです。

貧しいときにみんなで助け合って、
何かをする習わしや決まり事は、
集団がまとまる手段になります。
と同時に、
集団の経済力を削ぐ手段にもなります。

冒頭のムスタファは、
それに対して疑問を投げかけていたのです。

時の為政者は、
そのようなならわしを利用したり、
新しく共助のルールをつくったりして、
安定した統治を執り行います。
とても良いことのように思えます。

今の私達の生活を考えると、
共助の精神が巷にあふれかえり過ぎて、
少し違和感を感じるようになってきました。

「GOTOキャンペーン」
「ふるさと納税」
「補助金・給付金・援助金」
「クラウドファンディング」
現代版の共助の精神を利用した
仕組みやルールはたくさんあります。
お互いの持ち物をシェアするのもそうです。

助けが必要な人は共助で良いのですが、
余力のある人が、受け取る側になっているのは、
いかがなものかと思います。

アフリカでは、
先進国からの施しにならされた人たちは、
お金を恵んでもらうのが普通のことだと、
勘違いしている節もあります。
何もしない人がたくさんいます。
惰性で生きていると思えてきてしまいます。

このまま共助の精神が過ぎると、
私が体験したアフリカのように、
人が本来もっている成長意欲や
労働の喜び、感謝のこころといったものを、
薄れさせていくような気がしてなりません。

「共助システム」の出口が、
惰性で生きる人の集まりとならないのを祈ります。

 

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- 著者自己紹介 -

人材会社、ソフトウェア会社、事業会社(トラック会社)と渡り歩き、営業、WEBマーケティング、商品開発と何でも屋さんとして働きました。独立後も、それぞれの会社の、新しい顧客を創り出す仕事をしています。
「自分が商売できないのに、人の商品が売れるはずがない。」と勝手に思い込んで、モロッコから美容オイルを商品化し販売しています。<https://aniajapan.com/>
売ったり買ったり、貸したり借りたり。所有者や利用者の「出口」と「入口」を繰り返して、商材を有効活用していく。そんな新規マーケットの創造をしていきたいと思っています。

出口にこだわるマーケター
松尾聡史

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