第191回「日本劣等改造論(23)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― ソモソモさん、セッパ〜!―

什麼生(そもさん)、説破(せっぱ)という掛け声を知っているだろうか。アニメの一休さんを見たことがあれば、トンチ問答をする時の「始めますよ!」の掛け声といえばわかるだろう。一休さんといえば、一休さんの仲間の新右衛門さんを思い出してやたら懐かしくなった。

そもさん!せっぱ!は、禅問答を始める時の掛け声であるが、禅問答は禅宗では「公案(こうあん)」とも呼ばれ、本来はトンチ問題ではなく哲学的な問答である。隻手の声(せきしゅのこえ)という白隠禅師の公案が有名。

「両手を叩くと音がするが、片手の音とは?」

という問いがあるが、さあどんな答えをするだろうか。

公案とは受験問題を解くような正解探しではない。正解探しをする「我」を知るための入り口である。早く答えが欲しい、正しさが欲しい、間違えたくないといった「我欲」があることに氣づく。外に答えを求めている自分は、他者の言いなりになっていたり、間違えたくない自分はプライドの鎧で固く重たくなっていたり。

ナビやグーグルマップといった外の答えばかり使っていると、道を覚えないだけでなく、風景も実は全然見えていないことに、ハタと氣づいたことがないだろうか。パソコンを使って文字を打ち込むのも同じで、自動的に漢字に変換されるし、きれいな字を表示してくれて便利だが、ボツにして丸まった紙も、消しカスもないから、過程が残らないのでツルンとした文章になっていく。

昨年の師走、京都の母校に訪問した時、よく利用していた最寄り駅から大学までの道を歩いてハタと氣づいた。道すがらの周囲の風景を全然見てなかったことに。当時、その道は目的地につくための手段でしかなかったのだ。

大学生の自分と重ね合わせながらその道を歩いたが、道こそに目的があるよなと、25年経って少しは成長していた自分を感じることができた。それこそ大学の近くに「哲学の道」という有名なスポットがあったが、大学生の時は全く興味がなかった。目的地という正解探しをしていたんだろうなぁと思う。

これまでの25年の道を振り返ってみて、成長の跡に何があったか考えてみた。それは「そもそも?」という自問自答と、その「そもそも」に私と問答してくれた仲間がいたことだった。

そもそもそれって、何なん?そもそもそれって必要なん?そもそも何をしようとしてたん?そもそもってなんで考えようとそもそもしてんの?と私が「ソモソモさん」と言ったら、「セッパ〜〜!」と問答に付き合ってくれる奇特な人たち。

そういえば、昔はソモソモを言えば、「否定的やな」とか「不満かよ」とか「屁理屈いうな」とか「今更言っても意味ない」とうざがられていたが、徐々にセッパ〜!と言ってくれる仲間が増えてきて、最近ではそんな人ばかりに囲まれるようになった。

子供の頃、ソモソモさん!と呼びかけたかったのに、誰も答えてくれないどころか逆にうざがられるので、そんなもんだろと自分で自分を言いくるめたり、ちょっと我慢すればいいやとやり過ごしたりしているうちに、ソモソモを忘れてしまい、知らない内に他人の言いなりになっていたり、プライドの塊つまり劣等感の塊になっていたりしないだろうか。

このコラムを読んでいる人は、そもそも日本って、日本人って?という問いがあるからだと思うが、別にそんなこと考えなくても、日々生きていける。なんの問題もない。仮にこのコラムすごく良かったと思っても、周りにそれを見せて問答が始まるだろうか。うざがられるのが関の山?

私には幸運にもこのソモソモさんコラムに、セッパ〜〜!と問答してくれている仲間がいてくれるが、皆さんにはセッパ〜!と答えてくれる仲間はいるだろうか。もしいたら、その仲間は人生の宝である。

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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