泉一也の『日本人の取扱説明書』第40回「諫言の国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第40回「諫言の国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 

諌(いさ)める。絶対的な権威、権力者を否定をもする進言。体制へのデモではない。日本は欧米に比べてデモが少ないというが、当然。デモは美しくないからだ。公の場で、大勢が集まり大声をあげて不満を叫ぶ、これは日本の文化にない。西洋の政治文化を取り入れたことで、始まったこと。

諌める時にあるのは、覚悟。絶対的な存在に物申すのは、怖い。絶対から否定されたとき、そこにあるのは社会からの排除による孤立である。孤立することは人間にとっては、致命的。協力関係で生き延びてきた人間のDNAには、孤立は恐れでしかない。しかし、絶対的な存在に腹を決め進言する姿は美しい。三池崇史監督、市川海老蔵主演の映画「一命」は、命をかけて絶対に物申す美しさに溢れている。

「諌める」を我々は習っただろうか。プレゼンテーション研修なるものが巷にたくさんあるが、諫言や進言はそこにあるだろうか。ロジカルに魅力的に伝える研修ばかりである。諫言という言葉の読み方すら知らないだろう。武士は諌めることが侍の役目であると教えられた。君主に諫言することが最大の忠義と。その君主は諫言に耳を傾けることの大切さを学んだ。そういった教えがあったので、日本ではサムライ文化の700年、絶対的な権力・権威が独裁をすることはなかった。

諌めることを忘れた日本では独裁が生まれる可能性が高い。独裁者は自分を諌める存在がいないので「我欲(エゴ)」にブレーキがかからない。ブレーキがかからないから、裸の王様のごとく馬鹿げた存在となって周りを振り回す。諌める側も、生計を得る拠り所が「雇われる」という一つしかないと、雇い主へ何も言うことができない。武士は腹を切る覚悟があったが、現代人にそんなものはない。

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